木曜日, 1月 31, 2008

「どくろ杯」金子光晴




ロバート・ハリス氏の本か、Elan-Vitalに彼が出ていた頃のポッドキャストで知ったかして買った本。

詩人である著者・金子光晴が、妻とその愛人の関係が深まるのを畏れ、その妻を連れて上海から東南アジア、インドを経てパリへ、足掛け7年(あるいは5年)の放浪旅行をした際の出来事を綴った自伝。

これは1926年(あるいは1928年)の話である。それを作者は1969年、77歳のときに刊行している。今時の若者がヒッチハイクをするのとは全然違った時代の話であって、途中でいろいろな在外の人たちに世話になりながら、絵を売り歩いて旅費を稼ぎながらの旅であるが、いったいどうやればこうなるのか、というような話で、リアリティを想像するのも難しい話である。

にもかかわらずそれは現実である。それを表現するのに使われている言葉が詩人的で面白い。そして、やや粘着的というのか、過剰装飾的というべきなのか、そういう表現が、今時のチープな小説とは全く違った深い色合いで言葉の世界を形成していて、惹きつけられる。
ニヒリズムなのか、厭世的なのか、自虐的なのか、シニカルなのか、惨めな極貧の道行きを、やせこけてしぶとく歩いているようなイメージがある。先行きの見えない旅に踏み切って出た者の視点で、そこのところが自分には新鮮に感じられる。

うっとおしくも魅力的な本である。

水曜日, 1月 30, 2008

「A」「A2」森達也+安岡卓治




movie:「A」「A2」森達也+安岡卓治。オウム真理教による地下鉄サリン事件から5年後の2000年頃に、その後のオウム真理教の渉外・広報担当をしていたアラキ氏に密着するような形で記録されたドキュメンタリー。
大体において上九一色村のサティアン解体から、信者拠点が転々と設置、退去を繰り返しながら、上祐氏の釈放とアーレフへの改名、の頃までとなる。

「真実のドラマは、まだ何も知らされていない」という映画のコピーがいう通り、一般のマスコミ報道からは全く見えることのなかったオウム信者の日常生活と社会との関わりが記録されている。

「A」における一番の山場は、警察による一人の信者の(ほとんど)不当?逮捕に等しい取り扱いのシーンであった。身分を明かさないことを理由に挑発し、もみ合いから警官と信者が地面に倒れ込み、明らかに「フリ」をして膝を押さえて地面にすわっている警官の仲間がパトカーを呼び、相手の信者を逮捕していく。こういう風にするのか、と、警察の真実の一面を見た気がした。
この時の森のビデオ記録は、彼の決断で弁護士に一任され、それをキーとしてなのか、くだんの信者は起訴されることなく釈放された。

この森達也という人は、オウムにも警察?にも与しないことを宣言しているのか、内部を相当に深くまでカメラ取材しているようだ。ほかのマスコミがいっさいシャットアウトされている場所に、彼(と相方の安岡卓治)だけがハンディカメラでするすると入って取材している。

主な拠点を解体させられたオウム信者はあちこちに離散していくが、その先でもさまざまに近隣住民から排斥される。その中でも興味深い記録がされている。

ある地域では、監視テントができて住民がオウム信者の拠点を監視していたが、そのうちに仲良くなってしまい。信者と住民は和気あいあい、地域住民との交流の場になっている。バラバラだった地域の住民が、この監視活動を契機に一致団結というか絆が深まっている。
そういう場面は普通のマスコミのカメラが来ていてもそれを撮らないし、撮っても放送されたことはない、とのこと。
その監視所を撤去することになり、いらなくなった監視テントを信者と住民が一緒にばらす。ばらすテントからパーツをもらう信者。
監視所がなくなってもやってきて、ゆんたくしていく「ボランティア」の住民たち。ここでは一種の和解が成立している。「混乱している」という住民。
信者がここを退去することになり、「元気でな」「脱会したら遊びにこいよ」といってさよならする住民。
住民に本をくれといわれて教団の本を渡していく信者。「まっ直線なのがいい」「いなくなると寂しくなる」という住民。これが本来的な布教という活動の姿なのかもしれない。

松本サリン事件の被害者に会いにいく教団幹部たち。河野さんに「謝罪は必要ない」と言われ、当惑し河野氏の眼前で悩む信者。割り込むマスコミ。「ちゃんと肚くくって、まとまってから来なきゃ話にならない」「ちゃんと事前に決めてこないと。そういうことが世の中につたわる」と、別室を借して信者に会見内容を検討し直すよう促す河野氏。

精神異常者専用の施設があった。そこは人家から遠い。そこで別の信者を監禁をしたといわれ、逮捕された信者。また衰弱したからと警察により救急車にのせられて連れ出された信者。警察が「マスコミにいっちゃったから入院させてくれ」と病院に頼む。マスコミは現場を見知っているのに「警察報道」をそのまま伝える。報道弱者としての現実。

オウム信者が住み着いたために排除運動を始める住民たち。「みんなで追い出しましょう!」「我々は地下鉄サリン事件を忘れないぞ」
集会を開いて信者宅に面会しにいくが、家の中に招かれても断って、外に出て、スピーカーで「でていけー」と叫ぶ住民。中にはよく聞こえていない。「凶暴な集団」という非難をよそに静かに暮らす信者たち。どうしてよいかわからない、ややこっけいな住民運動。

その他もろもろ。とにかくどこにでもするする入れる森さん。

全体に、信者の現実とのつながりの薄さ?のようなものを感じた。身ぎれいさ、さわやかさとうらはらの、室内の汚らしさ。崇高さとチープ感。粗食で明るい人たち。その明るさ、一直線さ、と、その住んでいるところの汚さ、扱っているもののチープさ、未熟さ?の落差が印象的だった。

一般報道には全く出てこない側面をたくさん見ることができた。

月曜日, 1月 28, 2008

「ホームレス中学生」田村裕




お笑いコンビ「麒麟」のメンバー、田村裕が実体験した中学〜高校時代の赤貧の話。
製薬会社勤務であった父親が、妻(著者の母)の死と自らの病気をきっかけに解雇され、いわゆる中流の生活から一気に極貧となり、著者の中学二年の時に「家族を解散」する。以後、著者やその兄姉は別々に、公園を拠点にしたホームレスとなる。

ホームレスとして公園で生活し、段ボールを食べることに違和感を感じないという状態は相当の赤貧・極貧だと思うのだが、その体験自体のせいなのか、お笑い芸人である著者の性格・キャラクタなのか、あるいは極貧とはいえ、家族のように住まわせてくれたり、なにくれとなくサポートしてくれる友人の家族など周囲の人たちがあり、ぎりぎりでありながらも前に進むことができたからなのか、全体として一種突き抜けた感じの明るさ、楽天性がある。

彼の場合は幸運なケースだったのかもしれない。
この状態で妹を守りながら、一緒に同様の公園生活とバイトでしのいできたという、著者の兄の方がより孤立無援に近かったようだ。兄の話をむしろ読みたい感じがする。
状況があまりに軽々しく見える記述があるにもかかわらず、彼が周囲の人々や、特に母親を思う気持ちは切々としており、少なくとも最後のページ*だけ*にはぐっとくる。

その楽天性なのか、あるいは著者自身が認めている言葉のつたなさのせいか、話があまり深くなっていかない。こちらが実体験したことがないからわからないだけなのかも知れないが、その「浅い感じ」自体が、むしろ本来的に現代の社会で極貧のリアリティに近いのかも知れない。「うっそー」といった、軽いノリで会話が進むようなカジュアルな状況で、一歩踏み外すとたちまち「お手軽に」ホームレス状態が成立してしまうような、セーフティネットが存在しない日本社会が見えているのかもしれない。彼らはその中の、たまたま幸運なケースだったのであり、この話は等しく我々にも降りかかってくるのかも知れない、と。

それにしても、帯にある衆議院議員・麻生太郎のコメントが情けない。
『…ここには、日本人として忘れてはならない何かがあります』
助け合って著者らを支えた周囲の人々を指しているのだろうが、他人事のようにそれを言うのは政治に携わるものの立場ではないだろう。こういう人たちが落ちて行かないセーフティネットを作るのがあなた方が選挙で選ばれた理由のはずだ。

木曜日, 1月 24, 2008

「ザ・コンテンダー」


監督:ロッド・ルーリー、キャスト:ジョーン・アレン、ゲイリー・オールドマン、ジェフ・ブリッジス、クリスチャン・スレイター、サム・エリオット他

たまたまテレビでやっているのを見た。現職の副大統領急死に伴う再指名に女性候補が浮上したが、女性であることをよしとしない勢力から、過去のスキャンダル疑惑をねたに攻撃される。

以下ネタバレあり

ジョーン・アレンという俳優は、他で全く記憶がない。実を言うと「キンダーガートン・コップ」のシュワルツェネガーの相方、パメラ・リードと勘違いしていた。変わったなあ、と。。

自分への不利な疑惑を絶対的に否定できるにもかかわらず、「それはプライバシーなのだから俎上に載せるべきことではない。答えることは相手と同じレベルに自らを貶めることだ」と、否定も肯定もせずにノーコメントのままにする。そこのところがすごいのだ。

「誠実」というのとは違う、断固として、しかも葛藤の中でも静かなまま、自分の原理原則を曲げずに貫き通すという、人間の希有な姿を、アップの顔の表情で印象的に描き出していた。この映画の一番の見どころと思う。これだけのために見る価値はある。

ゲイリー・オールドマンの、相変わらずの嫌悪の極みのような演技もすばらしい。ああいういやらしさを演らせたら彼の右に出るものはいない。


これもたまたま、ポッドキャスト「コラムの花道」で、町山智博氏が女性大統領候補クリントンとの絡みで、この映画をタイムリーに紹介していた。もう一つはラッパーの黒人が大統領候補になる話。
彼によれば、今回大統領選挙では黒人、あるいは女性の候補が誕生する可能性がアルが、実はこれはオバマ、クリントンという特別な個人のケースであって、アメリカ議会・政界には、女性や黒人は非常に少ないのだ、という話をしていた。

火曜日, 1月 22, 2008

下地勇「2007年忘れライブ」リウボウホール




某所で「言葉の力とはなにか」という議論を行った。その時に、居合わせた下地勇さんが言ったのだ。「自分は本土でライブもする。全く宮古言葉のわからないだろう人が、私の歌に涙を流す。そこにある言葉の力とはなんなのか」と。

私は宮古方言がさっぱりわからない。そもそも沖縄方言もほとんどわからない。ナイチャー(内地人)どころか、まるで外国人のようなものだ。そういう私に彼の歌はどう伝わるのか、とても興味を持った。
そこで下地さんの2007年年忘れライブに行った。自分で「言葉の力」を確かめるよい機会かも知れないと思ったからだ。

以下はそのライブの感想である:

彼は一人出て来てギターを握った。スーパーハイテクではないが、よく考えられたギターアレンジで、楽器一つで効果的に自分の音楽の世界を組み立てていく。
彼の声もまた魅力的である。伝えたい本物の気持ちがあるようだった。

しかし、そこまでだ。結局、私にはまったく言葉がわからなかった。
理解できない言葉の音楽を聴いている自分は、わからないものに対するものめずらしさ、サーカス見せ物の首(映画「栄光のル・マン」のサルテサーキットの、一晩だけの遊園地のシーンを思い出している)やアクロバットなどの芸当を見物するような気分であった。

が、彼の演奏は単に見せ物ではなかった。そこにはわからなくても面白い音楽があった。

彼が歌っている時の音声(おんじょう)は、時々言われているように、確かにフランス語的に感じられることがあって、私にとってはピエール・バルー(映画「男と女」の「ダバダバダ…」の作者でボーカリストで役者)を聴いているのとまるで変わらない。
あるいはカメルーン語で歌うリチャード・ボナを思い出す。
そして下地の曲には、バルーやボナの音楽から感じるような面白さ、音楽のよさがあるのだ。要するに彼の歌は音楽として面白い。十分に聴く価値がある。

あそこにきた人たちは何を求めていたのだろうか? 全ての人がかれの言葉を理解しているわけではないだろう。結局のところそこでコミュニケーションとはどう成立するのか?
完全にわかる人は、言葉の面白さを楽しむだろう。たとえば横でころころと笑っていたり、涙を拭いていたりしたつれあいがそうだ。
断片がわかる人は、その面白さを「わかりたい」という気持ちで補完して楽しむだろう。
全くわからない、私のような「外国人扱い」の者にとっては、周囲の雰囲気と彼の曲の音楽としての面白さが楽しめる。

下地勇サイドではどうだろうか。
状況と深く結びついた表現をすれば、状況が表現を補強し増幅するかも知れない。その先にわからない言葉に対する涙が生まれるのかも知れない。(それは今の私には結局答えられない質問だった)
わかる人の世界に限定するのか、私のような外国人扱いを含めた「不思議の世界」として展開するのか、説得力はどこに生まれるのか、そのあたりが思案のしどころだろう。

私は、不思議の世界のまま音楽の面白さとして真っ当に展開して行くといいと思う。それに耐えうるだけ彼の音楽は十分に面白い。
元ちとせを連想するのだが、彼女の特異なボーカル能力とオーラ、それと組み合わさった楽曲の先端性が気持ちがいいように、彼の音楽も気持ちがいい。

だから外国でライブするのもよいのかも知れない。言葉のわからない音楽全体として勝負してしまうのだ。たとえばニューヨークのライブハウスで演ってしまえば、下地勇もピエール・バルーもリチャード・ボナも元ちとせも立場は同じだ。
音楽ぎりぎりの世界から、言葉のコミュニケーションに頼れる世界まで、幅広いスペクトラムを渡り歩けるミュージシャンは、そうそういないのかも知れない。

私は、彼の言葉のわからない曲を毎日のようにiTunesで聞いている。意味のわからない何語でもいいじゃないか。気持ちがいいんだから。音楽とはそういうものでもある。

日曜日, 1月 20, 2008

MacBook Airは使えるか?

MacWorld SF 2008でMacBook Airが発表された。詳細はあちこちにあるので省略する。Jobs CEOのkeynote speechのころからRSSリーダーなどで世間の情報をモニタしているが、そろそろあちこちで実機レポートや意見が出始めている。

インターフェースや付属機器を最小限に切り詰め、軽量化というより薄くすることを目指している。外部とのインターフェースは原則的に無線。さらにDVDドライブもない。そういうユーズスタイルを提案している、あるいはイノベーションとしてユーザーに突きつけているとも言うことが出来るわけで、そこまで"Think Different"と迫るのもアップルらしいと言えるかも知れない。

これにどう応じるかをいろいろと考えてみた。結果、このマシンは、セカンドマシンとして面白い使い方が出来るのかもしれない、という感じがする。

プライマリマシンとしては力不足である。最大の問題はHDDが80GBしかないことだ。現在の私のMacBookの内臓HDは250GB、うち実使用容量160BGである。これをそのまま持ち歩けないということは、プライマリマシンにはなりえないのだ。

データをスリム化し、持ち歩くものを限定すれば、役に立つ使い方ができるだろう。そのためには、プライマリマシンとの、カスタマイズ可能なSync機能が必要である。現存のバックアップソフトなどでそれができればよいし、そうでなければAppleに提供してもらいたいものだ。
持ち出す時に、自分のアクティブなデータを中心に持ち出すものを限定してSyncしてから持ち出し、それを使って帰って来たらまたプライマリマシンにデータをSyncする。それならば使えるか、という感じだ。

  • 書類のうち、アクティブデータを一ヶ所にまとめておいてそれをSync
  • お出かけ専用のプレイリストを作っておいて、それだけをiTunesからSync
  • メールはGmail、その他もろもろもネット上のサービスを利用する
というような方法を使えば、使えるかも知れない、という感じはする。持ち歩きように有線イーサネットアダプタと電源位は持つだろう。それ以外はあえて持たない、ということにして。

月曜日, 1月 14, 2008

日曜大工…



バイスにアルミの板を固定して、削っている。さて、私は何をしようとしているのだろうか。





原因はこれだ。先日出かけてエリーゼに乗り込む時に、ワイパーのアームにズボンの端を引っかけた(ズボンの端?、エリーゼの車高と、幌をつけた時の乗り込みを自分でやってみればなぜそんなことがおきるかもわかる…)
前から心配していたのだが、エリーゼのワイパー(およびウィンカー)レバーは、単純なプラスチックの棒である。いつか余計な力をかけて折ってしまうんじゃないかと思っていたが、ついに現実となったのだ。車に乗り込み、イグニッションキーを回すといきなりワイパーが動き出し、そこがどうなっているかがわかった。レバーが、ゴムのブーツだけに支えられてぶらぶらと垂れ下がっていたのだ…

うちにあるBMWもHR-Vも、このあたりのレバーは明らかにメタルを軸にしているしかしこれはまったくのプラスチック。内部はトラス状になっている。これも軽量化か…



まずは元通りにすることを考えた、スリット部分にアルミの板他を埋め込み、両側を繋ぐ。しかしパーツが多いと接合部分の弱体化につながり、また折れるかも知れない。
そもそもがこの車のワイパーはほとんど動くことがない。雨が予想される日は乗り出さないからだ。晴れの日専用車なのである。



そこで先の「削り」である。アルミ板を買って来て適切な長さに切り、スリットに嵌まるように薄く削っていたのだ。他にスペーサーとしてアクリル板を同じくらいの長さに削った。



それらを組み合わせて棒状にし、折れた本体側のスリットに強力接着剤で接着した。本当はネジ留めしたかったのだが、本体側にそれだけの大きさが無く、ネジ穴を作ると根元の部分自体を粉砕してしまう恐れがあったので接着のみにした。
24時間くらい放置すると、ちゃんと固定された。



最後にもう一つ造作が残っている。カバーブーツを取り付けるのだ。本体側はもともとはまっていたので問題ないが、棒の側の「ふさぎ」がない。
そこでアクリル板を削ってちょうどよい大きさにして、ブーツの端に取り付けてそれで穴をカバーした。こういう造作の最後はかならず現物合わせである。棒やすりでごしごしと…



これで完成。無骨なのだが、もともとまるでお姫さまのようなエレガントな見た目よりはるかに無骨な車なので、それでOKである。
そもそも晴れ車のここにはほとんど触ることがないだろう。また間違えて折りでもしない限りは… むしろ短いほうが邪魔にならずに、間違いが起ることも少ないはず…

水曜日, 1月 09, 2008

マジカルミステリーツアー:vol.1349:具志堅隆松/沖縄戦遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」代表

http://uruma.ap.teacup.com/magical/454.html

.mp3へのリンクあり。

ボランティアで遺骨収集をしている。「おもろまちの開発の時にも指摘したのだが、開発前に遺骨収集がされなかった。骨は土と一緒にトラックで運ばれて、どこかの埋め立てに使われたのだろう」

日曜日, 1月 06, 2008

二つの映画

初釜と新年会を楽しく過ごし、帰宅していきなりその気になり、まだみていないレンタルDVDをプレイした。タイトルは「バベル」





あまりにアンリアルで不条理な「運命の不思議」にみえるが、実は不思議でも何でもなく、人生の歯車がちょっとかみ合い損ない、連鎖が成立してしまえば、まるで自然な流れのごとくがらがらと行くところまで行ってしまうリアリティがある。
そのリアルな物語がいくつか組み合わさって、運命の不思議、縁(えにし)までを感じさせる。
そしてどのストーリーにも、またその組み合わさった妙にも、その背景にも、「バベル」という言葉が意味するコミュニケーションの不能性が染み込んでいる。
一瞬も目が離せなかった。奇異で悲惨なシチュエーションが、次はどうなってしまうのだろう、と見逃せない感じ。つかみきって放さない。まさしく力強い物語の持つ力だと思った。

見終わって、夕食を済ませ、ふと誰かがテレビをつけたら、たった今始まったばかりの映画があった。それが二つ目だ。ハイビジョン日曜シネマ「花嫁のパパ」。



イタリアに留学していた22歳の娘が、帰ってくるといきなり
「フリーランスの情報通信コンサルタント」をしているというリッチファミリーの青年と結婚する、という。若い二人に押し切られ、結婚式が計画され終わるまでの父親の不安や哀しみや期待を父親役のコメディアンのスティーブ・マーティンの視点で描く。
ストーリーは
完全に思った通りのな予定調和展開で進み、なにかひねりがあるんじゃないかという、ある種の期待がまったく外されてそのまま終わってしまう。
「バベル」とは完全に対極にあるような映画だ。

前者は147分。この間、時計を見た記憶がない。気がついたら終わっていた。後者は102分。「なにかひねりは?」と思いながら見続け、それが起りそうもないとわかると「バベル」との違いを考えながら見続けた。結局はこらら二つを等しく最後まで観てしまう我々はいったいなんなのか、と考えてしまうことであった。