水曜日, 3月 26, 2008

AirMac Extremeでマルチホーム

少々ハマった。



写真はうちのルータである。Linuxの載ったノートPCで、数年動き続けている。(実はこれは二代目で、先代のホストは、以前に近辺で落雷が起きた時に、ネットワークインターフェースごとフライになってしまった。)

このルータPCが1週間くらい前から「かたかた」とかなり大きな音をたて始めた。私より先に家人が「変だ」と気づくくらいの大きな音だった。
ディスプレイを見ると;



ハードディスクの障害である。ファイルの読み書きができないらしく。sshログインもなにもできない。どう見てもヤバそうである。電源が入っている間は動作し続けそうだが、再起動したらもうまったく動かないだろうと推測した。
奇跡的に今メモリ上で動作している機能は維持されている。それはdhcpd,named,NATである。うちの内部ネットワークは、ブリッジモードで動作しているAirMac Expressによる無線ネットワークも含め、全てこのLinuxからIPも経路情報もみんなもらっている。これがつぶれたら…やれやれ。。

あまり待てない雰囲気だし、無線もあるしAirMac Extremeならルーターだしなんとか代替えになるよね、と、あまり深く考えずにさっさと購入した。



ここでややこしいのは、うちは過去の歴史的事情でいわゆる「マルチホーム」になっている。別にもう一つのルータが同じ内部ネットワーク上にあって、通信相手によってはそちらのルータから別の経路でインターネットへつながっている。インターネットへの通信経路が二つあるのだ。二つの出口のどちらから通信するかを、現在壊れかかっているLinux PCと、そのルータが設定によって役割分担している。そのLinux PC(と今あるAirMac Express)の代わりがこの新しく買ったAirMac Extremeというわけだ。

さて、それで設定を始めたら、なんとこのAirMac Extremeという機器は、内部インターフェースにに特定のIPアドレスをこちらで自由に指定して設定できなかったのだ。Extreme自身が勝手に特定のIPアドレスを取得する。(そしてそれはたまたま現在別にルータに割り当ててあるIPである。)
しかも、自分以外をデフォルトゲートウェイとして指定し、それを自分のDHCPINFORMのパラメータとしてdhcpクライアントに送ることもできないようだった。これではマルチホームの設定ができない??

mixiとApple Discussion Boardで質問し、いろいろに意見をいただき、とりあえずルータの設定を変更して、自分で勝手にIPを取るAirMac Extremeとうまくあわせてやることにした。
これでIPアドレスの問題は解決したが、自分以外をデフォルトゲートウェイとして指定することはできないらしく、仕方なくExtremeでのDHCPをあきらめて内部ホストはスタティックでIPアドレスと経路情報を指定した。(ここのところはもう少しリサーチする余地はあり、技術的にやそれも試してみたいところ。)

これでとりあえず問題は回避できた。あとは、このままのネット構成でいくのか、これを機に歴史的事情を清算して、マルチホームをやめ、プロバイダとの単一の契約にしようか、などといろいろと考えているところである。

mixiの関連するコミュニティとADBの皆様には、いろいろと意見を出していただき、参考になりました。どうもありがとうございました。

ちなみに、元のLinuxルータだが、再起動したところ「OS not found」と言い起動しなかった。HDを入れ替えて再インストールすれば、すくなくとも使えそうではある。。

火曜日, 3月 25, 2008

「桜さくらサクラ・2008」山種美術館

山種美術館はちかぢか移転作業に入るらしい。新しい場所は恵比寿方面(広尾)とのこと。私はまだ見たことがないが、半蔵門のあの場所は近くに桜がたくさん咲くようだ。その桜の近くの美術館は、別のところへ行ってしまう。
その縁を惜しむかの様に、桜に関連した作品を集めた展覧会が行われている。

「日本画」とは何か?、と考える。伝統的な日本の画材を使った絵画、ということにでもなるのだと思うが、絵のあり方そのものは明治期以降に大きく変わったように感じられる。

明治以前の「日本画」は、おおむね線画を基本とし、それに着彩してある。立体感や透視図法に基づくリアリティというよりは、形式化され様式化された美で、くっきりとしている。
他方、明治以降のものは、画材やテーマは和的であっても、絵画の構図や描画法が西洋絵画的であり、よりリアリスムである。
そこのところがまだるっこしい。和物の画材でびっしりと重々しく、西洋的に描かれた和物のテーマは、どっちつかずで困っている。しかもびっしり描いたせいで「間(ま)」がない。大きな間のある空間で、線画でくっきりと草花を描いた酒井抱一や鈴木其一の絵の方が、はるかにすっきりと潔く美しい。
新しい画風が導入され、100年を経た「日本画」は、古来のマテリアルと新しい考え方の中で何かを生み出したと言えるのか? そのことを明確に意識して自分のスタイルとしている人は、千住博氏をはじめとして数少ないのかもしれない。

そんなことを考えながら絵を観ていた。大観の絵は、いつも感じるようにユーモラスな気がして好ましかった。奥田元宋の「奥入瀬 (春)」は、ぼうっ、としがちな岩絵の具を大胆に使って大きな画面に渓流と森をリアルに描き出していた。金彩が背景の明るさを出すのに隠し味のように使われているのも面白かった。奥村土牛の「吉野」は、明るくうっすらと描くことで、桜にけぶった春の吉野の山を軽やかに表現していた。洋画家志望から転向したという川端龍子が、洋画の厚い絵の具のマチエールを思わせるような筆づかいで桜の木の幹を平坦な画面に表現し、それがきれいに軸装に収まっているのも面白かった。これが今回は一番好きだった。

これで興味を惹かれ、川端龍子記念館があるのを知ったが、場所を見てみれば、なんと先日川瀬巴水を見に訪れた大田区立郷土博物館のすぐそばであった。知らないとはこういうことだ、と久しぶりに実感した。
やれやれ…

「西行の仮名」出光美術館(東京)



出光美術館(東京)で開催されている。
伝西行の書のうち、特に私家集に本人の真筆の可能性があり、それらを真筆とともに展示している。

書は全く詳しくなく、いつか畠山記念館でみた高野裂の、紀貫之のはらはらと女性的なうっとりするような文字と、ユニセックスな感じの本阿弥光悦の文字くらいしかわからない。
西行の字はそれらとはまた違って、すっくりとしていて美しい。「伝西行」と言われる文字は、全体的にはそんな感じがして、しかしいくつかの異なった筆跡が混じっている。その全体的なイメージを紹介する展観だが、どれとどれが似た感じなのか、ゆっくり見比べたかった。(残念ながらこちらの時間が短く…)

宗達らによる西行物語もある。最近の出光らしく、面白いプレゼンだと思う。

見ていてなぜか日本家屋の縁側を思い出した。

広告やパンフレットの文字は中務集のもの。「…さやかにもみるへき月を(われ) はたたなみたにくもる(ことそ) おほかる…」

日曜日, 3月 23, 2008

「歌舞伎役者十三代目片岡仁左衛門」下北沢トリウッド




歌舞伎役者、十三代片岡仁左衛門の84歳から90歳の記録映画である。一言でいうとそういうことだ。ナレーションも音楽もいっさい、なし。彼の舞台や稽古・指導、日常が記録されている。

というわけだが、これはすごい映画だ。

私が見たのは「若鮎の章」で、全10時間からなる映画の最初の部分になる。ここで仁左衛門丈は、普段は小さな役しかすることのできない「大部屋俳優」だけで舞台を演じるのを指導している。台詞もつければ振りもつけるのだが、そうして出来上がった舞台の薄暗い観客席に、今度は手を引かれて入ってくる。なんとこの時、丈はすでにほとんど盲目であったそうだ。
そういうことなのだ。身体に染み付いた役者根性・役者そのもの・役者とはどういう人か、ということが映像でありありと描き出されている。

ただ、記録し、エッセンスを選んで見せる編集が、まるでジャズのライブを観ているような感じにさせる。

3/27には、当代仁左衛門がトークショーもするとのこと。(要予約)
映画館下北沢トリウッドで行われている面白いイベントである。

映画の要約がここにあるのを発見。

日曜日, 3月 16, 2008

「本当は知らなかった日本のこと」鳥越俊太郎・しりあがり寿



一人のジャーナリストの視点から、著者の同時代について語った本。視点が固定しているので、わかりやすく現在の社会の枠組みを解説している。特に「団塊」と「グローバリズムの背景にいるアメリカ」が主なテーマになっている。
全く世間知らずの人が、世間を改めて捉え直す起点にするにはよい本と思う。

手軽にさっさと読める本。

土曜日, 3月 15, 2008

雅な

知人から封書が届いた。



この人からは、以前、衝撃的なハンドクラフトの年賀状をもらっている。官製年賀はがきの真ん中に扉状の切り込みが入れてあって、「開放」と書いてある。扉には金色のシールで留め具もつけてある。開くところにはちゃんと縁に色まで入れてある。やっていることは簡単そうだが、ちゃんと念が入っている。びっくりしたし感動した。

その方との連絡でこの写真の封書が来た。宛名は毛筆、切手は百人一首の詠み人たちを図案にしたものである。中からはいろいろなものとともに封書がでてきて、その文には美しい香の薫りのする紙が挟んであった。
ああ、うれしやこの雅び。



歌人は上から紀貫之、持統天皇、猿丸大夫、源兼昌である。このシリーズのもう一人は二条院讃岐であったので、その人の歌をネット上の「通じる」場所に置いておいた。

水曜日, 3月 12, 2008

「白神山地」(ネイチャー・サウンド・ギャラリー)



かなりの音楽好きである。が、それはそれで少々困ることもある。音楽が鳴っているとそっちに集中してしまって、他のことに集中できないのだ。いまでこそかなりその傾向は弱くなって来たが、学生時代はもう全く意識が音楽に持って行かれていた。
なので今でも何かする時は音楽なしがいい。のだが、それでもなにかすこし耳に音が入るといいな、と思うことがあった。

何で読んだが忘れたが、集中するのに非常に役立つ音に「自然音」があるとのこと。水の流れる音とかそういうものだ。

それでこの「白神山地」というディスク?をiTSで買ってみたのだが、これがばっちりである。静かだが穴ぐらのような部屋にいる時など、世界が変わったように感じる。夜に、近くにきれいな空気と森があるような感じがするのだ。

一日ずっと鳴っていてもいい感じである。(水の流れる音だけは少し相対的なボリュームをしぼってみたが、その方がいいかもしれない。)

お薦めである。AmazonでもiTSでも買える。

Mixi日記の削除と、Mixiからの引っ越しリサーチ中



ソーシャルネットワーキングサービス、mixiが著作権条項改変問題で揺れている。事件に呼応するように株価がストップ安をつけたようだ。

話はmixi内部のことであるし、いろいろとネットにも書かれているので詳細は再掲しない。ポイントは以下のようなことである。

・mixiの規約改変で、ユーザーの作ったmixi内部にあるデータを、mixiがほとんど全て自由に無償で改変・利用できると明文化される
・これに対してユーザーが騒ぎ始めて事件になっているのだが、mixiはそれに対して「条文は主にデータ処理のためのもので、ユーザーの著作権について触れた条文を付け加える」と追加説明しているが、それも法律文言的に検討すると大した意味はないらしい。(詳細はmixi内部「著作権」コミュニティ管理人のSimonさんの日記の解説に詳しい:mixi内部のことなのでここからリンクはしない。)

ということで、私は個人的な対応として以下を行うことにした:

・私のmixiの日記は、直接mixiで書き始めているものと、ここなどの記事へのURLリンクを紹介する形で書いているものがある。それらのうち、mixi内部で直接書き始めているものをほぼ全部削除する(非常に特殊なケースが10本ほど残る)。

これらは全記事の約60%に相当する。この記事についているイメージは、削除する/しない記事を整理してNeoOfficeでテーブルにしたもののスクリーンショットである。

これはmixiに対する私のけじめであり、主張である。mixiから、マイミクもろとも他のSNSへ移れる方法にはどんなものがあるか、というリサーチもしている。ユーザーが減ることにつながるアクティビティが、いちばんmixiにたいしてプレッシャーになるのではないかと思っているので、その経緯も、可能な限りmixi内外で開示しようと考えている。

日曜日, 3月 09, 2008

「立川談志 きょうはまるごと10時間」

「立川談志 きょうはまるごと10時間」
今日テレビでやっている番組
。落語家立川談志を複眼的に捉え、紹介する番組。

「談志はすごい」という話をよく聞く。が、私にはそれがよくわからなかった。落語をとりわけ注目して聞くように(見るように)なったのはごく最近で、落語家の名前も有名どころをいくつか聞いたことがある程度、いつもはpodcastで二枚目を聞いていて、年寄りの少しよぼよぼとした語りよりは二枚目くらいが元気があって、リアリティを感じていい、などと思っている程度のものだった。
特に「談志の落語」は、少なくともDVDでレンタルできるような範囲においてはかなり年寄りになってからのものが多く、すこし言葉の間があき気味にしゃべるのと、型から外れたようなよけいな講釈に感じられるようなところが多く、「まだるっこしい」ように感じていて、好きではなかった。

が、やはり「談志はすごい」といわれる。どこがすごいのか、もう少し知ってみたいと思い、この番組を見た。(もう一つは、いつだったかの大竹まことのpodcastに談志師匠が出ていて、自分の老いの姿を自分で嫌悪しつつも、その姿をさらしながら落語を続けて行くことについて語っていて、その気迫というか、心のあり方に興味を持っていたからでもあった。)

そしていくつか知ったこと:

彼は落語だけでない芸も、自分にすべてをインプリメントしつつ落語をやっている。彼の持っているものは単に落語の型ではなく、落語を含めた当時の文化を丸ごと飲み込んだ姿である。(番組で中村勘三郎が短く語った彼のことが象徴的だと思う。「だってあの人自体が芸なんだから」。)

古典落語をきっちりと押さえつつ、その古典を毎回アドリブで、現在に投影しつつ演じているライブパフォーマーである。

彼は、老いその他でこわれていきつつも自分自身と落語が一体化した芸を披露している。型をこなしているのでない。毎回自分、というリアルパフォーマンスなのだ。そこのところが、他の落語家の「伝統芸」とは全く違った形の芸として我々の前に立ち現れている。

すごいことだ、と思った。

番組は本日夜まで続いている。

「美しき日本の残像 (朝日文庫)」アレックス・カー



本書は「残像」に関する話だ。つまりもう残っていない、かつてはあったものの姿。「美しい日本」はすでに残像だ、と著者アレックス・カーは語る。

アメリカ人であり、子供の頃は横浜に住み、アメリカの小学校で中国語を学び、大学で日本学を学び、ケンブリッジから日本の大本教団に就職し、外資不動産会社にも就職し、その日本での活動の中で、伝統的な日本の「美しい姿」と、経済大国ニッポンの自然文化の破壊・荒廃を両方見てきた著者の日本論である。

彼の言葉は率直でありシンプルであり、「日本文化」といった枠組みにとらわれていない。西欧人の目から見た、わざと外したような、皮肉がカジュアルに混じったような書き方をする。

彼自身が子供の頃に培った、日本の美しい自然や文化に対する想いと、崩壊の現実が等しくリアルな組み合わせとして並べて語られる。なつかしくもあり、かつ暗澹とする、我々がどこかに出かけて感じることを、共感できる言葉で語っている。

かつてあった美しいもの、そしてもうなくなりつつあるものを、外側からの目で知っている人のことば、昔語りであり、日本人にとっての客観的なリファレンスになるものと思う。

そして、ギリギリ残っているものをどうするのか、我々にはそれが問われている。もうそれから何年ものひびが過ぎ去ってはいるのだが。

新日曜美術館「KPO閉館~現代アート発信の20年~」

新日曜美術館「KPO閉館~現代アート発信の20年~」という番組を見た。大阪の繁華街のど真ん中にあるKPOでの、キリンビールの先端的な現代アート発見の試みとその終焉の物語。

企業イメージとメセナ活動と、アートの先端性の衝突などが象徴的に描かれていて面白い番組であった。

金曜日, 3月 07, 2008

タイヤの口金の交換

クーラント漏れでパイプを交換したエリーゼは元気に戻ってきたが、以前からの問題が一つ残されていた。



鉄?の口金に「Lotus」のロゴ入りのアルミのキャップがはまっているのだが、これがアルミと鉄の間の錆(タイヤ屋さんは「白サビ」と表現した)で完全に固着してしまって、キャップが外れないのだ。
自宅でいくらかがんばったのだが、外れそうにないのでタイヤショップへ行って相談した。

「外れませんね。切って外しましょうか」
「お願いします」

ということになり、写真のようにキャップは口金ごと切り離された。もちろんタイヤからは空気が抜けるので、さきにホイルごと車から外しての作業である。新しい口金をつけてもらい、キャップを地味な黒いプラスチックキャップに交換して、つけ直したタイヤのホイルバランスを撮ってから再装着となった。

走ってみると、思い出した、このタイヤの弱点が再び明らかになった。タイヤがどっちを向いているかわからないくらいに情報がステアリングに返ってこないのだ。
エリーゼの指定空気圧は1.6と低い。このタイヤはさらにキャップが外せないことでエア調整ができず、1.4程度で走っていた。その状態だと、変形したタイヤの転がり抵抗のようなものを手に感じていたが、適正空気圧にもどったら、ほとんどステアリングにタイヤの感触がでてこなくなった。
これは運転しているとけっこうなストレスである。ステアリングを切って車体はたしかに挙動を変えているが、どうもそのことの実感が伴ってこないのだ。「大丈夫かいな、この車は」という懸念が頭を離れない。ちゃんと曲がっているのに。

今度はアドバンネオバにすべきか。。。

水曜日, 3月 05, 2008

mixi規約変更問題(特に第18条について)

ここ数日、この件はmixi内部も、ネット全体でも話題になっている。詳細は大手ネットメディアを含めてあちこちに書いてあるので省く。かんたんにいうと;
・mixiが、ユーザーの事実上全てのコンテンツに関して自由に改変・使用できると規約に定めることにした
・ユーザーの一部(?か多くかはわからない)がそれに大反対している
・mixiはこれに対し「サーバ負荷軽減など、コンテンツのデータ処理に関することを意図していて、ユーザーのコンテンツを無断で出版することはない」と「追加説明」をした(が、それを規約に盛り込むとは述べていない)
といったことだ。

私の感触は;
・規約の文言は、法務的だが、見る印象はユーザーが疑念を抱くに十分である。また字面上の運用がそのままなされれば、ユーザーの懸念はそのまま現実のものとなる
・「追加説明」を含めて、規約に書けば話もまた違うだろう
・「追加説明」を信頼するか、しないかでユーザーの対応は変わるだろう

といったところだ。

そして、もう一つ思い浮かぶことがある。AppleのCEO、Steve Jobs氏のことだ。

Keynote speechにおける彼のプレゼンテーションが非常に優れていることは、世間に知られている。彼は観客を熱狂させ、Apple信者にする。彼に全面の信頼をおく人もいるのかもしれない。

彼のプレゼンは、綿密なリハーサルの上に成り立っていると聞いているが、プレゼンの会場での彼の姿から受ける印象は、それとは関係ない。彼は自分の言葉で聴衆に語りかける。彼の姿は誠実である。この男は少なくとも自分に嘘はついていない。そう思わせる。

今なぜこれを思い浮かべるのか。笠原氏も今、それをすべきなのだと思う。自分の言葉で、ユーザーに何をしたいのか、何をするつもりがないのかを語るのだ。
法務条項が語らないものがあるとすれば、それは「あうん」の信頼だ。彼がそのことを自分で明らかにするならば、少なくともmixiのコアユーザーは、法務文言の不安より、彼の言葉を信用するだろう。mixiはそれくらいintimateな世界であったし、コアな人にはいまもそうだろう。
「お前が自分でそういうなら信じてやるぜ」というわけだ。

彼がそうしておいてそれを裏切れば? そりゃIT系カフェで誰かに会えばぶん殴られるし、もう人として信頼されなくなるだろうが…

火曜日, 3月 04, 2008

木村伊兵衛展 『街角/秋田』




東京工芸大学・写大ギャラリーで開催されている。ここはシリーズで木村伊兵衛をやっているらしい。日曜日の朝、ちょうど開館きっかりに到着し、まるで私のために会場を開けてくれたようだった。:)

彼はライカを使う。その機動性を活かして一瞬で構図を決めている。その直感、インスピレーション、ファインダをのぞく集中力に感心した。スナップショットのようでありながら(実際そうなのだが)、現代人のそれとは全く狙っているものが違う気がした。

彼はまためんくいでもある。中に美女数人が写っている。そのうち二人は東北のエキゾチックな感じの女性たち、もう独りは浴衣女性を背後から撮影した横顔だ。これも一瞬を捉えた隠し撮り的であるが、撮影した時の彼の気持ちがわかるような気がした。「わかるよ…」

最近の東松照明の写真展でも感じたが、過去に興味を持つ自分がいる。そのこと自体が不思議だ。

「レーザーターンテーブル」

http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/trail/080220_elp1/index.html
http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/trail/080227_elp2/index.html

めちゃめちゃ面白い。