金曜日, 5月 06, 2011

Firefox 4.0.1 and GrApple theme

Firefox 4.0をインストールしてみたが、意外に速くならなかったのと、いつも使っているApple likeなテーマが使えず、見た目がみっともなくて使っていられなかったので3.xに戻していた。昨日辺りに4.0.1が出たので、また試してみた。速くなった。あとは見た目、ということでもともと使っていたGrAppleというテーマをみてみたが、まだ4.0対応していない。
しかしみると有志がディスカッションして、4.0.1が作られているのをフォーラムで見つけたのでやってみた。

素晴らしくすっきりと元のようになったので、ごきげん。ありがとう>作業してくださっているみなさん。

日曜日, 5月 01, 2011

統一地方選挙の話

もうずっと前の統一地方選挙の話。メモしてあったが、書いていなかった。とりあえず書いておく:
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2011年4月12日0:53:20
統一地方戦について何か書いておくべきことがあるだろうか。
象徴的なのは石原都知事再選だろうか。
Bushの2期目と同じで、混乱の時期に大衆は強いカリスマを望んだ。一方、本命の対抗馬が不明瞭のまま候補者の数だけが増えて票が割れた。石原氏にとっては赤子の手をひねるような選挙だったかも知れない。
あいまいな嫌悪感が、形にならないうちに旧守的大勢力に負けた。対抗勢力内での合意形成や協力が生まれなかった、ということか。
われわれの間では、日常的で継続的な議論や認識の深化が形成されていない。あるいはそのような継続的な議論のリスティングや、誰が何を主張しているかへのポインタがない。
インスタントで消費的なマスコミ報道しか情報ソースがない、ということかも知れない。

どうしたらいいのか。

継続的な議論とそのリスティングを手近に持っておくこと。それを忘れずに常に意識しておく、そのための枠組を用意しておくこと。
チャンスを捉えて代替エネルギー論者をねばり強く選びつづける、などなどか。
ツイットやネットの影響は驚くほど小さい。
外から見れば、それはつながってせいぜい数万。選挙区の分割から見ると微々たるもの以下と考えてよい。1ロケーションで影響力の強いマスメディアの方がずっと強力だ。ある程度のローカルボリュームの人々の間にツィツターが浸透すると集約効果と展開効果がシナジー的に現れれて超強力になるのかも知れないが、それはまだ先の話だ。

だからこそ、ローカルに、リアルな人のネットワークを築いていくことが重要だ。地道で小さな議論単位グループが自分たちのしていることには正しい意味がある、と自信を持っていられる還境を持てることが重要だ。
ファシリテーターによるサポートなどをキーに、生産的で相互に尊重のある議論の場。
ビジュアルに意見の分布がわかるようなネットツールがあるとよいだろう。
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大昔の話だ。

白洲正子「私の百人一首」

久しぶりに白洲正子の「私の百人一首」をとり出して読んでいた。茶会記を書くのに筆書きの練習のために百人一首を毛筆書きし始めて、そこから辿って行ったのだ。口絵のカラー写真が和泉式部の読み札だったのでまずそこを読んだ。
少し長目に引用する:

物思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る

私の好きな歌の一つであるが、これは保昌に捨てられた時、貴船の明神に詣で、御手洗に蛍が飛ぶのを見て詠んだ歌といわれている。小野小町と並んで、平安時代の女流歌人の双璧とみても異存はあるまい。やがて彼女も伝説の人物と化し、日本中の至るところに足跡を止めるようになって行く。それについては柳田国男氏の和泉式部研究にくわしいが、ここにあげた二、三の歌を見ても、常にあの世とこの世の中間をさまよう女であり、それが夢現の恋の陶酔と重なって、妖しい雰囲気をかもし出す。小野小町と和泉式部には、たしかに共通する何かがある。それを仮に巫女的な吸引力と名づけてもいいが、その放心的な魅力が男心をとらえ、ひいては民衆に強い印象を与えたのであろう。

これを読むと、なるほど白洲が能を修練していたことと符合する気がする。能は多くの場合、夢と現の間をシテが往き来するモチーフで出来上がっていて、白洲の文章の根幹にそのモチーフが焼き込まれている感じがする。