月曜日, 11月 07, 2016

映画「マザーウォーター」


映画「マザーウォーター」がなぜ好きなのか、自分でもさっぱり分からないのだが、何度も観てしまう映画だ。そんなことしなくてもいいとわかっているそれを、あえて考察してみるのだが:

「かもめ食堂」のスタッフが作った映画、といえば、大体どんな雰囲気かは分かると思う。出演も小林聡美、もたいまさこはいつも通りにいて、今回は小泉今日子と市川実日子がニューフェースということか。

とはいっても、たとえば「カモメ食道系」と括ってしまえるわけではない。この映画には、カモメ食堂にはかろうじて存在していた、なんらかのストーリーのようなものも、ほとんどまったく存在しない。小林聡美がウィスキーバーを、小泉今日子がカフェを、市川実日子がとうふ屋を営んでいて、そこに何人かの出演者が出入りし、会話し、日常がすぎていくだけの映画だ。ほんとうに、何も起きない。ほんとうに。

だが、その「なにもなさ」加減がとても気もいい。日本の絵画の「間」というべきか、そのなにもないという要素がそこにあって、初めて全体がしっくりするのと似ている。「そうだよな。日常ってこういうもの(であるべき)だよな」という、あって当たり前なのに今はやれネットだ、スマホだ、なんだかんだで消えかかっている日常の「間」のようなものが映画に現出していて、それがとてもうらやましい、のか、自分も今この時間はそれにあわせていたい、のか、こういう時間を自分の日常にも作るべき、と思うのか、とにかくその中にはまっていたいと思うのだ。なにをしたくなるわけでもないが、あえて言えば、シンプルでおいしいとうふを一丁、食べたくなるかも知れない。

ぼーっとした日常の正当性というか復権というか、そういうものを感じ、内省する映画だ。