火曜日, 1月 22, 2008

下地勇「2007年忘れライブ」リウボウホール




某所で「言葉の力とはなにか」という議論を行った。その時に、居合わせた下地勇さんが言ったのだ。「自分は本土でライブもする。全く宮古言葉のわからないだろう人が、私の歌に涙を流す。そこにある言葉の力とはなんなのか」と。

私は宮古方言がさっぱりわからない。そもそも沖縄方言もほとんどわからない。ナイチャー(内地人)どころか、まるで外国人のようなものだ。そういう私に彼の歌はどう伝わるのか、とても興味を持った。
そこで下地さんの2007年年忘れライブに行った。自分で「言葉の力」を確かめるよい機会かも知れないと思ったからだ。

以下はそのライブの感想である:

彼は一人出て来てギターを握った。スーパーハイテクではないが、よく考えられたギターアレンジで、楽器一つで効果的に自分の音楽の世界を組み立てていく。
彼の声もまた魅力的である。伝えたい本物の気持ちがあるようだった。

しかし、そこまでだ。結局、私にはまったく言葉がわからなかった。
理解できない言葉の音楽を聴いている自分は、わからないものに対するものめずらしさ、サーカス見せ物の首(映画「栄光のル・マン」のサルテサーキットの、一晩だけの遊園地のシーンを思い出している)やアクロバットなどの芸当を見物するような気分であった。

が、彼の演奏は単に見せ物ではなかった。そこにはわからなくても面白い音楽があった。

彼が歌っている時の音声(おんじょう)は、時々言われているように、確かにフランス語的に感じられることがあって、私にとってはピエール・バルー(映画「男と女」の「ダバダバダ…」の作者でボーカリストで役者)を聴いているのとまるで変わらない。
あるいはカメルーン語で歌うリチャード・ボナを思い出す。
そして下地の曲には、バルーやボナの音楽から感じるような面白さ、音楽のよさがあるのだ。要するに彼の歌は音楽として面白い。十分に聴く価値がある。

あそこにきた人たちは何を求めていたのだろうか? 全ての人がかれの言葉を理解しているわけではないだろう。結局のところそこでコミュニケーションとはどう成立するのか?
完全にわかる人は、言葉の面白さを楽しむだろう。たとえば横でころころと笑っていたり、涙を拭いていたりしたつれあいがそうだ。
断片がわかる人は、その面白さを「わかりたい」という気持ちで補完して楽しむだろう。
全くわからない、私のような「外国人扱い」の者にとっては、周囲の雰囲気と彼の曲の音楽としての面白さが楽しめる。

下地勇サイドではどうだろうか。
状況と深く結びついた表現をすれば、状況が表現を補強し増幅するかも知れない。その先にわからない言葉に対する涙が生まれるのかも知れない。(それは今の私には結局答えられない質問だった)
わかる人の世界に限定するのか、私のような外国人扱いを含めた「不思議の世界」として展開するのか、説得力はどこに生まれるのか、そのあたりが思案のしどころだろう。

私は、不思議の世界のまま音楽の面白さとして真っ当に展開して行くといいと思う。それに耐えうるだけ彼の音楽は十分に面白い。
元ちとせを連想するのだが、彼女の特異なボーカル能力とオーラ、それと組み合わさった楽曲の先端性が気持ちがいいように、彼の音楽も気持ちがいい。

だから外国でライブするのもよいのかも知れない。言葉のわからない音楽全体として勝負してしまうのだ。たとえばニューヨークのライブハウスで演ってしまえば、下地勇もピエール・バルーもリチャード・ボナも元ちとせも立場は同じだ。
音楽ぎりぎりの世界から、言葉のコミュニケーションに頼れる世界まで、幅広いスペクトラムを渡り歩けるミュージシャンは、そうそういないのかも知れない。

私は、彼の言葉のわからない曲を毎日のようにiTunesで聞いている。意味のわからない何語でもいいじゃないか。気持ちがいいんだから。音楽とはそういうものでもある。