月曜日, 9月 22, 2008
京都座禅行
なぜに坐禅? 理由は大きく二つある。
まずは茶道を習っていること。茶道と禅はとても近い関係にある。それで体験してみたい、と思った。
もう一つ。今、ITのトップギークたちがさまざまな観点からITに浸かりきったライフスタイルを見直している。GTD,ライフハック、などといろいろと表現されているものの近辺のことである。「うまくITから遠ざかる」ことが、ここでのテーマである。
そこに「Mind like Water」という言葉が登場する。「水のような心」。典型的にはこのURLにある書籍に書かれていることと関係しているようだが、私はその本を読んだわけではない。むしろ、そのようなものの一表現系が禅ではないか、と考え、それで禅に近づいてみたいと思った。
そこで体験修行である。
まずはどこでできるかとリサーチしてみる。言うまでもなくトップに上がってくるのは、開祖道元の修行を伝える曹洞宗大本山、福井県の永平寺である。ここが3泊4日の体験参禅を受け入れている。午前3時起床の坐禅と修行の一端に参加することになるらしい。「参禅を志す方は、本山の日課と、雲水の日常生活に準じた修行をします。特に厳格である為、興味本位で上山すると挫折します」と書いてある。
ついでに少し禅自体についてもリサーチしてみる。鈴木大拙の本をいくらかと、永平寺雲水を体験した野々村薫氏の「食う寝る坐る 永平寺修行記」を読んだ。本物の雲水とまるで同じということはないだろうが、日課がかなりきつそうなのと、沖縄から行くと前後泊が必要になるので5泊6日というスケジュールになってしまうのに少し躊躇した。それで京都辺りでどこかないか、と探して「宝泉寺禅センター」という場所をみつけた。よし、こっちでいってみよう、ということで申し込んだ。
それは大正解であった。
スケジュールその他はwebにあるのでここには詳しく書かないことにするが、坐禅のプロセスと、それに向かう態度は正しく教わった気がする。午前5時過ぎからの、薄明から徐々に明るくなって行く朝の坐禅と、灯りを暗くした夜のそれは、かすかな香の薫りと、風や鳥や虫の声以外には音のない世界で自分を無に虚にして行く作業で、とても意義深いものであった。
そしてもう一つ、「人はこうして生きて行くのだ」という根本的なプロセスをあらためて認識した気がする。
パソコンも持って来ていない。ネットもテレビもみない。携帯もオフ。朝起きて飯を食べ、課せられた仕事をし、坐禅という形で自らと世界を観ずる修行をし、感謝すべきものに感謝して寝る。それだけ。
その生活の中に、人としての喜びが、確かに、ある。テレビのバラエティショーを見て誰かをあざけて笑う必要などない。来ている仲間同士でいろいろなことを話したり、ほんの一部だけが赤く色をつけたもみじ葉のそよぐのを見たり、そこにきらりと光が反射するのを見つけたりすると、テレビの無意味な笑いなどよりはるかに質の高い喜びを感じる。こういうことが生きることなのだ、と感じた。
さらに。禅寺での日常の作務は、その成り立ちからGTDそのものであった。毎朝、今日やることを決める。手持ちのリソースと、そのリソースが持つモチベーションを、行動すべきアクションアイテムとマッチさせ、その日のうちに「やってしまう」のだった。その意味で朝のミーティングがとても興味深いものだった。
ここでは昼食後から午後の時間が夕方の薬石まで4時間ほど自由に使える。私はある日は図書室にあった美術展の図録を読み、別の日は近くの亀岡から出発する保津川下りに加わった。
とても有意義な体験であった。