火曜日, 3月 25, 2008

「桜さくらサクラ・2008」山種美術館

山種美術館はちかぢか移転作業に入るらしい。新しい場所は恵比寿方面(広尾)とのこと。私はまだ見たことがないが、半蔵門のあの場所は近くに桜がたくさん咲くようだ。その桜の近くの美術館は、別のところへ行ってしまう。
その縁を惜しむかの様に、桜に関連した作品を集めた展覧会が行われている。

「日本画」とは何か?、と考える。伝統的な日本の画材を使った絵画、ということにでもなるのだと思うが、絵のあり方そのものは明治期以降に大きく変わったように感じられる。

明治以前の「日本画」は、おおむね線画を基本とし、それに着彩してある。立体感や透視図法に基づくリアリティというよりは、形式化され様式化された美で、くっきりとしている。
他方、明治以降のものは、画材やテーマは和的であっても、絵画の構図や描画法が西洋絵画的であり、よりリアリスムである。
そこのところがまだるっこしい。和物の画材でびっしりと重々しく、西洋的に描かれた和物のテーマは、どっちつかずで困っている。しかもびっしり描いたせいで「間(ま)」がない。大きな間のある空間で、線画でくっきりと草花を描いた酒井抱一や鈴木其一の絵の方が、はるかにすっきりと潔く美しい。
新しい画風が導入され、100年を経た「日本画」は、古来のマテリアルと新しい考え方の中で何かを生み出したと言えるのか? そのことを明確に意識して自分のスタイルとしている人は、千住博氏をはじめとして数少ないのかもしれない。

そんなことを考えながら絵を観ていた。大観の絵は、いつも感じるようにユーモラスな気がして好ましかった。奥田元宋の「奥入瀬 (春)」は、ぼうっ、としがちな岩絵の具を大胆に使って大きな画面に渓流と森をリアルに描き出していた。金彩が背景の明るさを出すのに隠し味のように使われているのも面白かった。奥村土牛の「吉野」は、明るくうっすらと描くことで、桜にけぶった春の吉野の山を軽やかに表現していた。洋画家志望から転向したという川端龍子が、洋画の厚い絵の具のマチエールを思わせるような筆づかいで桜の木の幹を平坦な画面に表現し、それがきれいに軸装に収まっているのも面白かった。これが今回は一番好きだった。

これで興味を惹かれ、川端龍子記念館があるのを知ったが、場所を見てみれば、なんと先日川瀬巴水を見に訪れた大田区立郷土博物館のすぐそばであった。知らないとはこういうことだ、と久しぶりに実感した。
やれやれ…