日曜日, 11月 11, 2007

上野広小路亭

ホテルへのチェックインのタイミングがずれたために、浮いた時間の調整のために初めて「寄席」というものに入った。場所は上野広小路亭
神田紫:講談
松旭斎八重子:手品
三遊亭遊史郎:「六尺棒」
三遊亭圓雀:「紙入れ」
都家歌六:のこぎり演奏
三遊亭圓丸:「子別れ」
これらが90分くらいの時間で演じられる。

のこぎりの演奏には感心した。演奏用に特別に作られた、ぎざぎざの歯のない「のこぎり」で、根元が太く、先端が細くなっていて、その先端近くに特別に明るく、丸く光ったところがあった。そこには演奏者である歌六の、親指が当たるのだ。
最初に歌六がのこぎりを足の間に挟み、左の指でその先端を握った時、いきなり足がぶるぶると震え出した。いわゆる「中風」のような状態である。「あっこれはやばい…」と思ってしまったのだが、実際はこれは、のこぎりから出る音にビブラートをかけるためであった。
足でビブラートをかけながら、左手でのこぎりを「たわめる」その加減で音程を調整する。それがある音から別の音へ向かう間に、連続的なグリッサンドのような音でなく、ちゃんと音階を上ったり下ったりするように聞こえる。そのためには左手のたわめを、音程を意識しながら段階的にやっているのだろうが、大変な技術だと思う。

落語の演目はすべてPodcastで聞いたことがあり、知っていた。(そのこと自体にも自分で驚いた。)「六尺棒」は遊び人の息子とその親父のやり取りが面白い話。「紙入れ」は、親方の奥さんに間男をしていた男が紙入れを忘れて、そこから起こる喜劇。「子別れ」は、どうやら全体がいくつかの段に分かれているらしいが、その最後の部分、酒で身を持ち崩していた大工がまじめに働くようになり、子どもとの再会を契機に別れた女房とよりを戻す、いわゆる「人情ばなし」だ。
広小路亭は、おそらく席数が100くらいだろうと思う、前半分は座椅子に座って観て、後ろ半分は椅子に座って聞く。みたところ7割くらいが埋まっている。中年以上の人たちが多い感じだ。そこで数メートル先に座った、生身の語り手が、声色たっぷりに親子の情を語る。それは、ちゃんと、観客の涙を誘うのだ。客席からは鼻をすする声や、目頭を押さえる手が見える。「場の力」ということなのか?、などと思いながら、自分も目の周りを拭ってみると、同じように濡れていた。

人の情というのは、こういうところで、こういうスケール感の中で、生きているのだ、と、初めて感じた。