金曜日, 11月 23, 2007

昔の話:「モネ大回顧展」国立新美術館

メモだけあって記事にしていないのに気がついたので書いておく。昔の話だから印象が薄くなってしまっているが。

国立新美術館の杮落しシリーズの一つである。
モネは、いつものようにモネであった。新しく気づいたのは、彼の絵がみな、肌色っぽい色調を帯びていることだった。それはモネの色なのか?、絵の具の変質なのか?、時代の色なのか?、修復などがなされているのか?
暖かい色合いは、彼らしい、という感じもすることはするのだが、不思議なことではあった。

この美術館は、どうも美術館というよりデパートの特売場か、ショッピングモールのような印象がぬぐえない。なぜだろう。

そしてそこにはまるで特売場のにいるような雰囲気の方々がたくさん来ていらっしゃるのだが、そういう方々にも、絵を見るという体験は身のうちになにかを残すのだろう、と思うのだった。
もちろん私自身についても同じようなもの。:)

土曜日, 11月 17, 2007

「くに流」ゲスト:山下洋輔

http://www.joqr.net/blog/kuniryu/

この「くに流」の、現時点で一つ前の山下洋輔の放送が面白い。

木曜日, 11月 15, 2007

「川瀬巴水」大田区立郷土博物館


川瀬巴水は明治生まれの日本画家・版画家である。初めは日本画を志したが、年齢などさまざまな事情で洋画を学び、その後鏑木清方のもとで日本画を学んだ。(清方に「巴水」という号をもらっている。)ある日同期の画家が展覧していた版画をみて「これなら自分にもできる」と版画の道に入り、大成した。
川瀬は画家になってからのほとんどを大田区で暮らしていて、今回、没後50年を記念して大田区立郷土博物館展覧会が行われている。

博物館は西馬込の駅から少し歩いたところにある。区立博物館で入場無料。巴水の作品は300点ほど(展示替えあり)が展観されている。
最初に32回摺りの版画の、全プロセスを並べた展示から入る。その後は大体において時系列に沿って作品が並んでいる。

回数の多い多色刷りのプロセスの面白さにまず惹きつけられる。色が重ねられているせいでくすんで見えるが、それがまた西欧絵画的なリアリティを版画にもたらしていて、ユニークな感じがする。
西欧的に見えるものと、古典的な、江戸の錦絵のような作品もあるが、私は後者が好みであった。

そして、描かれている風景がすばらしい。歌舞伎座が水面に映っている作品がある。昔はあのあたりに水路があった、ということだ。その他、江戸から連なるとても美しい風景作品がたくさんあって、昭和10年くらいまでは、東京でこんな場所がたくさんあったのだな、と感心する。我々はいかに短期間に多くの美を失ってしまったのか。

古き良き日本の姿がここに残っている。

全体的にある種の「静かさ」を持った作品が多く、私はC.V.オールズバーグのイラスト(ジュマンジ、西風号の遭難、白鳥湖、などなど)を連想した。

「東京の地元」のローカルな博物館で、こんなにも美しいものが見られたことが嬉しい。無料で誰でも、というカジュアルさもあいまって、信じられないくらいのことに思える。お薦めである。

水曜日, 11月 14, 2007

LeopardでGIMPが落ちる件のリカバリ

LeopardでGIMPが落ちる件のリカバリ:

http://www.x.org/wiki/XDarwin

Updated Xquartz binaries
Updated libX11 binary -- Gimp crash fix

を順番に適用。これで落ちなくなった。

火曜日, 11月 13, 2007

ラジオ版課外授業プログラム「学問ノススメ」野口健

.mp3へのリンク:

http://pod.jfn.co.jp/susume/dl/susume_vol80_01.mp3

これはパート1で、近辺にパート2, 3, 4がある。探してください。

とても面白い。
・今時の子どものエピソード
・故橋本龍太郎氏のこと。彼は心酔しているようだ
・ゴミ集め登山のこと
・ゴミ集めの子が、渋谷のゴミ集めを始めちゃったこと
などなど。

月曜日, 11月 12, 2007

富山の美術館たち

仕事の移動日で富山市内の美術館をめぐった。

事前にリサーチをしており、富山市内にはミュージアムバスが走っているとのこと。

まずは空港からのバスを宿近くの富山市郷土博物館で降りて、中に入った。入り口でミュージアムバスの通行証となるパンフレットをもらう。これに日付入りスタンプを捺してもらうと、バス通行証になる。こちらは富山城を中心とした、マルチメディアを使った展示と、城の天守閣から富山市内を俯瞰することができる。

同じ敷地内の佐藤記念美術館では、東京国立博物館所蔵の広田不孤斎コレクション展が行われていた。発色の鮮やかな三彩など、とてもクォリティの高いものが並んでいた。どこかの新聞社の人が取材に入っており、展覧会の感想などを客に聞いていた。
ここの二階には「柳汀庵」という、移築された茶室がある。中には入れないが、躙り口から覗くことが出来る。二畳台目の席だが、なぜか点てた茶をどこに出すのかよくわからなくなった。パズルのような感じ?であった。金森宗和の指導になるものとのこと。もう一つの茶室が一階にあるのだが、バスの時間を気にしていたら見落としてしまった。

ミュージアムバスは1時間に1台走っており、経路の各停留所に毎時間同じ分に着く。たとえば佐藤記念美術館のところに09時22分に着く場合は、10時22分にもそこにバスが現れる。もしもミュージアムバスだけで指定の美術館を見て回るなら、この1時間を基本に行動しなくてはならない。
バスに乗り、次に入ったのは水墨美術館だった。

水墨美術館は、市内から西に出て神通川を渡り、川べりに南にいったところにある。広々とした敷地の中に、ゆったりとその美術館はある。
中に入るとまず常設展示がある。富岡鉄斎、横山大観、前田青邨、松林桂月などの作品をみることができる。これまで自分が目にすることが少なかった作家の作品が多く、とくに大観とはこういう人であったのか、と思ったり、青邨の全く作風の異なる3種類の作品をみて彼の多様さを感じたりと、非常に面白く観ることが出来た。
この部屋を出るとさらに、広々とした庭を見晴らす、かなり長い廊下の奥にもう一つの常設展示があり、そちらには下保昭の作品が集められている。その奥には茶室「墨光庵」がある。500円で薄茶をいただくことができる。
御薄を一服してから、外の庭に出てみる。広々とした芝生の庭である。今日は雨で、ざーっ、という音が周囲の生活雑音を消している感じがする。大きめの円柱によりかかり、何もない広々とした庭に向かって雨音を聞いていると、思い出したのは坂田靖子の漫画「誇り高き戦場」の最後のシーンの絵だった。アラン・シリトーの小説(映画化されている)を元にしたこの作品の最後で、再会した指揮者と元軍人は、音楽堂の外の広い階段のところで、ギリシャの神殿にあるような大きな円柱によりかかりながら、ひたすら雨をながめていたのだ。

再びミュージアムバスに乗り、富山駅前に戻った。食事ののちに近代美術館に行くことにしたが、バスの時間が合わない。そこで電車で行くことにした。富山地方鉄道の運営する路面電車である。富山駅前から南富山駅前行きの「本線」に乗り、運転手さんに聞くと、近代美術館へは西中野駅で降りればよいとのこと。運賃200円。降りる時に運転手さんが「そこの路地を入って、細くなりますがかまわずに進むと突き当たりにくるので左に折れて、さらに突き当たったら右に折れてまっすぐ行くと、美術館の敷地に着きます」と教えてくれた。言われた通りに行くと、確かに道はどんどん狭くなり、どうみても近隣住民しか知らない田舎の住宅街の路地のようなところを歩いていくことになった。それでも言われた通りに行くと、突如として目の前にでかい建物が現れ、そこへ道がたどり着くと、美術館の裏門であった。さすが。

近代美術館では「時の中で」という特別展が行われていた。富山の現代の作家による作品とのこと。これがなかなかよかった。くっきりとした作品がおおく、それぞれの作者が、それぞれに知り尽くした技法で表現すべきものを表現しているようだった。
二階の常設展に上がると、展示室内から大声が聞こえていた。初老の男性が、中年の男女二人にピカソやなにかのことを、NHKのテレビのことなどを交えながら大声で話し、わはははと大笑いしている。美術館の中のありさまとしてはとても異様で、そちらに近づかないように順路を逆に回り始めたが、円形の空間で仕切りのないところなので、大声はいやおうなくこちらに届く。とても作品を見ることに集中できなかったのでいったんそこを離れ、中二階の展示室に向かった。

中二階には、グラフィックデザインとしてのポスターの展示と、シャガールの聖書のリトグラフのシリーズ、そして瀧口修造のコレクション(彼のところに集まってきたモノたち)の展示が行われていた。どれも充実していて感心した。特に瀧口修造のモノたちは、以前に世田谷美術館かどこかで展観されたのを観損ねていたのだが、縁が呼んだのかこうして目にすることが出来たのは嬉しかった。

二階に戻るとさっきの騒がしい人たちはいなくなっていて、ゆっくりと作品群をみることができた。
ここにはピカソらから始まり、シュルレアリスムの旗手たちから草間彌生などまでの現代作家を、かなり包括的にみることができる。とてもよいものたちであった。

見終わると、中二階のカフェでスパークリングジュースを飲んだ。雨が一休みし、雲間から夕焼けが見えてきた。
あらためて、ここ富山の美術館の充実ぶりを思い、感心した。コレクションの内容も、それを収蔵するたてものもだ。なぜこんなに整備されているのか?、不思議なくらいだ。改めて調べてみたい。

楽しく、感心した一日であった。

日曜日, 11月 11, 2007

上野広小路亭

ホテルへのチェックインのタイミングがずれたために、浮いた時間の調整のために初めて「寄席」というものに入った。場所は上野広小路亭
神田紫:講談
松旭斎八重子:手品
三遊亭遊史郎:「六尺棒」
三遊亭圓雀:「紙入れ」
都家歌六:のこぎり演奏
三遊亭圓丸:「子別れ」
これらが90分くらいの時間で演じられる。

のこぎりの演奏には感心した。演奏用に特別に作られた、ぎざぎざの歯のない「のこぎり」で、根元が太く、先端が細くなっていて、その先端近くに特別に明るく、丸く光ったところがあった。そこには演奏者である歌六の、親指が当たるのだ。
最初に歌六がのこぎりを足の間に挟み、左の指でその先端を握った時、いきなり足がぶるぶると震え出した。いわゆる「中風」のような状態である。「あっこれはやばい…」と思ってしまったのだが、実際はこれは、のこぎりから出る音にビブラートをかけるためであった。
足でビブラートをかけながら、左手でのこぎりを「たわめる」その加減で音程を調整する。それがある音から別の音へ向かう間に、連続的なグリッサンドのような音でなく、ちゃんと音階を上ったり下ったりするように聞こえる。そのためには左手のたわめを、音程を意識しながら段階的にやっているのだろうが、大変な技術だと思う。

落語の演目はすべてPodcastで聞いたことがあり、知っていた。(そのこと自体にも自分で驚いた。)「六尺棒」は遊び人の息子とその親父のやり取りが面白い話。「紙入れ」は、親方の奥さんに間男をしていた男が紙入れを忘れて、そこから起こる喜劇。「子別れ」は、どうやら全体がいくつかの段に分かれているらしいが、その最後の部分、酒で身を持ち崩していた大工がまじめに働くようになり、子どもとの再会を契機に別れた女房とよりを戻す、いわゆる「人情ばなし」だ。
広小路亭は、おそらく席数が100くらいだろうと思う、前半分は座椅子に座って観て、後ろ半分は椅子に座って聞く。みたところ7割くらいが埋まっている。中年以上の人たちが多い感じだ。そこで数メートル先に座った、生身の語り手が、声色たっぷりに親子の情を語る。それは、ちゃんと、観客の涙を誘うのだ。客席からは鼻をすする声や、目頭を押さえる手が見える。「場の力」ということなのか?、などと思いながら、自分も目の周りを拭ってみると、同じように濡れていた。

人の情というのは、こういうところで、こういうスケール感の中で、生きているのだ、と、初めて感じた。

金曜日, 11月 02, 2007

「やかまし村の子どもたち」ラッセ・ハルストレム

やかまし村の子供たち
ラッセ・ハルストレム監督の映画である。私が彼の名前で思い浮かべるのは「ショコラ」だ。

ヒマナイヌの川井さんがmixiでレビューしているのを見て借りて観た。

北欧の、分厚い緑につつまれた村で、6人の子どもを中心に、「ただの生活」の風景が描かれる。
それだけの話だ。

しかし、「生きるとはこういうことなのだ」という、当たり前の、とても大切なものを突きつけられる気がする。

これは、日本がなるべきであった世界なのだ。普通の人々の日々の生活が安定していて、真っ当に暮し、次世代を育てる。生き続ける自然の美があり、人々がナチュラルな自然体で暮らしていくことが出来る。
バブル期からこちら、ITだ「勝ち組」だと浮かれ騒ぎ社会資本整備を忘れ、「中流」と言われた階層がいつの間にか貧困層になっていき、人々のありようが先鋭化し、他人を自分の利でしかみない社会とは対極のものだ。北欧の小国に対するあこがれを強く感じる。これが物語の中の世界であると知っていても、だ。

いつか、こういう世界にいたいという、理想が生まれる。忘れるべきでないもの、社会のありようも、海外派兵もなにもかも、そこから全てを見直すべき土台を感じる。