水曜日, 12月 23, 2015

二つの展覧会:鴨居玲、小川千甕

二つの、結果的に対照的な展覧会を二つ、続けざまに観ることになった。
仕事で京都に用事があり、たまたま飛行機が伊丹空港便であった。そして、たまたま伊丹市美術館で鴨居玲展が開催中であった。調べてみたら伊丹空港から美術館までバスで20分とのこと。途中をバス内ingressハックしながら美術館へ向かった。

鴨居玲は、日本の洋画家のなかでは傑出した画力を持っていると思う。基本的な絵の説得力が飛び抜けている。
そしてその生涯は、結末的に、不幸だ。彼のキャンバス前の自画像が表している通り、存分に描くことが出来るのに、何を描いていいかわからないと悩み、57歳にして自死した。いったいなぜ、と思わざるを得ない。
翌日、京都文化博物館で小川千甕(おがわせんよう・おがわちかめ)の展覧会を観た。この人も、絵書きとして飛び抜けた才能を持っている。15歳にしてすでに仏画の技法を習得し、20代に洋画・写生を学び、陶磁器の絵付けをなりわいとし、日本画に進み、洋行で印象派の技法を習得し、漫画を描き、再び日本画に戻り、そして富岡鉄斎のような文人画・南画を描きながら80代で没した。幸福な人生といって良かろう。

二つの展覧会を立て続けに観て、重なった時代を生きたこの二人のずば抜けた才能のある画家が、かくも違った人生を送ったものだと、その運命の不思議を思わずにはいられない。(鴨居玲1928(昭和3)-1985(昭和60)、小川千甕1882(明治15)-1971(昭和27))何がこの二人を分けているのか。
鴨居は、現代人として、自己の確立・自分探しを行った世代といえる。対する小川は明治生まれで、そのようなことを考えずに若い頃を過ごし、ひたすらそこにある画題を追い求めたよう見える。彼は自らの書に「随縁」と残している。

自分探しをせず、ひたすらそこにあるものに没入し、そのことで得た縁が次の人生へとつながる。いつの時代も当たり前のことを当たり前にして行くことが先へつながる、ということだろうか、と思った。

月曜日, 12月 21, 2015

永観堂で見たもの

昨日は、ぼんやりと京都をあるいた。思索的に過ごすことが出来て、こういうのもいいもんだと思うが、途中にingressが混じるとそこで思考が中断する。気をつけようingress。

蹴上から南禅寺方面に向かい、UPCキャプチャしながら野村美術館方面に歩いた。行く先は決めず、そのまま銀閣寺方面まで歩こうかとも思っていた。
まずは野村美術館が休館。さほど気落ちすることなく永観堂に向かった。以前からここの見返り阿弥陀のことは聞いていたので、一度くらいは見ておこうか、と思った。
東山も紅葉はどこも終わっていて、寒々とした風景である。これが紅葉まっただ中であれば、なにか発想も違ったものになっていただろうか。

永観堂に入り、あらためて観光化した寺の不幸を思った。(尤も人のいない時間にはそれは違っているのかもしれないが。)あらゆるものが俗化している。どこぞの誰が描いたという襖絵は、全体を覆う大きなガラスに覆われて、てらてらと光を反射している。いっそデジタル技術で見分けのつかない複製を作ってガラスなしではめ込んで、オリジナルはどこかに保存した方がいいくらいのものだ。(どうせガラスで覆ったってさほどに保存性が上がるものでもあるまい。どこかで温度湿度管理してください。)堂内は、どこもかしこも観光客のざわめきと笑い声、足音に充ち満ちている。見返り阿弥陀のある阿弥陀堂の中にしても同じこと。像と自分が対峙している雰囲気はなく、ただちらっと見て返ってきただけだ。これならテレビで演出された映像を観ている方がずっといい。

帰り際に、反対側にあまり人が行かない順路があるのに気づいて行ってみた。当たりだった。
そこには長谷川派が描いたという見事な孔雀図のある座敷があり、ほとんど人がこなかった。おあつらえに脇の庭に小川があり、ちょろちょろと水音がする。水音だけの静かな時間と空間。これだよ。
いつだったか、鞍馬方面の瑠璃光院に青楓を見に行った時のことを思い出す。ここも観光化していて、入れ替わり立ち替わり現れるおしゃべりな観光客に辟易していたが、時々人が途絶える。その時に、緑の木立に吹く風がさらさらと軽やかな音を立てる。他に音はない。その瞬間、自分と自然、自分となにかわからない抽象的なものが対峙する。

禅寺やそこらに行く時、我々はこういう時間と空間を求めているのではないのか? いまではいっときに数分も続かないこの時間を。

日曜日, 12月 20, 2015

孤独と思索とソーシャル(ネットワーク)

孤独について考える。孤独は思索とつながっている。深く深く考えるということだ。孤独と思索がクリエーションに繋がっている。ショートメッセージよりロングメッセージ。それでないと伝わらないことは、ある。
現代人はソーシャルでいつも繋がっていることで、孤独を失いつつある。これは明らかに間違っている。我々は深く考える機会を失いつつある。

孤独な場所と時間を確保し制御するのは、だんだん難しくなってきている。我々の生活のどこにそれがあるだろうか?
朝の起きぬけの時間? はあるかもしれない。
人のいない禅堂? いい場所だと思う。
坐禅・瞑想出来る環境を自前で持つ? いいことだと思う。
景色のいい秘密の駐車スペース? かなりいい線を行っていると思う。
一人のキャンプ? 下準備やその場の環境を制御しきれないと少し違う、ということになるが、設営がうまくいき環境を制御できれば、かなりいける。
朝早くから営業している喫茶店? 邪魔の入らない環境が手に入るなら、いけるかもしれない。鍵は人の行き来と、音楽のテイストと音量だ。スタバでヘッドホンで耳ふさぎしているのは、耳ふさぎしている時点ですでにちょっと違うだろう。耳ふさぎしていればどこでも同じことかもしれないが。(でもいけないこともないのか? 実は耳ふさぎという行為をやったことがない。)

繋がらないメディアの存在も重要だ。紙の本。図書室など。邪魔の入らない場所で読み、考えられるかどうか。電子ブックがネットにつながれば、ワンクリック先にソーシャルが待っていて、あなたをどこかに連れ去ってしまう。

検索すればネットにつながってしまう。そこにもソーシャルが待っている。
検索しないで考える時間があってもいいのだ。検索はまとめ、サマライゼーションの一部だ。ブレインストーミングと同じで、自己の思索にはまず発散、自由な思考の展開が先立つべきで、サマライズする必要はない。

思索のツールはなんだろうか。
何もなし。これも悪くない。ただ、考える。考えは頭の中にメモされる。ただ考えることは重要なフェーズだ。
紙。ビジュアル派にとっては重要な発散のツールだ。テキストに落とすところの二度手間が少し残念ではあるが、その作業を含めて思索を整理していると思うことにするしかないだろう。
エディタと軽いPC。テキストを書くこと自体がまとめフェーズであるから、すでに思索の領域を過ぎている。そこで使えるツールならいいだろう。なんだかんだと持ち歩かないで済むのがいいので、その意味では12インチのMacBookはいいのかもしれない(持ってない)。
タブレットやスマホ? マインドマップがあれば、比較的簡便に発散と整理が出来る。基本的に整理ツールなので発散に仕えるかどうかは、慣れ(というより、かわまず書きなぐって整理に頭を使わないスタンス)があるかどうかにかかっている。

一人でじっと考えることに不安を感じる人はいますか? いるのかもしれない。だが実はそれは最高の楽しみ。各自が得られる、純粋な自由時間でもある。好きに妄想なさるがよい。