最近では珍しいのだが、若い人の音楽を買った。Lucy Roseという英国出身の女性シンガー・ソングライター。Shiverという曲が蟲師という映像作品で使われている。これもものすごく久しぶりに、一日中全曲ループで流しっぱなし、という聞き方をしている。
若いイギリス女性ということで、ガブリエル・アプリンなどと類似視する向きもあるようだが、私にはそういうふうには聞こえない。たとえばアプリンをアヴリル・ラヴィーンっぽいと捉えるならば、ルーシー・ローズはジュリア・フォーダムやビヨルクに近い感じがする。きれいで、細くても途切れない声の感じ、どこか類型化されない不思議な感じの音楽という点で。ライブ感や空気感といった、ナチュラルな感じもそれに加わる。
自分自身の環境では、オープンカーで聞きながら走れる感じの曲。ただし外国人の気楽さで、歌詞は意識していない。Tシャツの変な日本語みたいになっていなければいいのだが。
いい曲だけいくつか曲買いしようと思ったが、結局はお得だからアルバム買い、ということになる。iTunesの時代になって全体としてストーリーを持ったアルバム作りの困難さがあるかも、と思うこともあるが、結局はお得なアルバム買いということになれば、それはあまりないのか? もっとも聞く方は自分でプレイリストを作ってコンピレーションしてしまうわけだが、それでもすべての曲が入るようにいい曲を作ればいい、という作る側の努力もあるのかもしれない。
水曜日, 5月 28, 2014
火曜日, 11月 03, 2009
「マイケル・ジャクソン This is It」

同時代を生きていると言っていい、がしかし、彼の音楽を特段気をとめて聴くことはなかった。それはビジュアルにもかっこいい音楽で、ある時代はいつでもそこにあり、またその後もよく耳にしていた音楽だった。とは言うものの私自身と特別なつながりがあるわけではない、普通の「街で流れている音楽」だった。
彼が亡くなり、映像が再び画面に出始めた。それを今見直してみて、この人がどれくらいすごいダンサーだったかがよくわかる。
他のダンサーとは全く体の動きが違う。ただ足をそろえて(「気をつけ」のように)立った、ただそれだけの姿が決まっていて、かっこいい。
同じように「ただ立つだけで決まる」ダンサーは一人しか知らない。それは、今は亡きフラメンコの鬼才、アントニオ・ガデスだ。「カルメン」や「恋は魔術師」で見た彼の姿は、踊りが全く異なるにもかかわらず、マイケルジャクソンと強く連想がつながる。
二人のその凄さがつながった時、人生で初めて、マイケルジャクソンを見てみたいと思った。そしてそこに「This is It」があったのだ。
見始めていきなり掴まれる。オーディションに現れた世界のダンサーたち。涙ながらに彼へのあこがれと今の自分を語る彼らの姿から、彼らにとってマイケルは神なのだと、すぐにメッセージが伝わる。
基本的にはリハーサルをつなぎ合わせた映像である。しかしそのリハーサルは念入りであり、そのものが完成品のごとくであり、音も含めて見て聴く価値が十分にある。すばらしい映像作品だと思う。マイケルは真摯であり、プロフェッショナルとして冷静であり、心遣いがある。そして彼が本物の音楽の才能持つ人であることもわかる。
そしてそれがリハーサルだからこその雰囲気もある。つまり我々観客は「中に」いるのだ。我々は観客が見るようなフッテージを見ながら、実はマイケルと行動を共にしている。そこのところの親密さが、不思議な暖かさをもたらしている。
映画の終わりに誰からともなく拍手が生まれたのも、最近の映画館ではなかなか見ない光景だった。
見る価値のある映像である。お薦めです。誰にとっても。
日曜日, 9月 06, 2009
「沖縄 しおり Live「STEP by SMILE 2009」 〜僕らの海へ〜」
20090905、てだこホールにて。知人の紹介で見てきた。実を言うと20代の女性ボーカリストのワンマンライブなど、ほとんど聞いたことがない。とても興味があった。
ライブはややぎこちなく始まった。バックはキーボード、ベース、ドラム、ギターが二つ。ドラムのPA処理がハードロック風というのかどーん、と響き渡る感じで、ホール&オーツ風とでも言うか、そんな感じだった。もうちっとコンパクトなPA処理にしたら、ボーカルがより映えるのではないかと思った。ドラマーはディアマンテスの人だそうで、ラテンバンドでやっていらっしゃるのが不思議なくらい後ろノリの人に感じられた。(PAのせいかもしれないが。)
そのうちに小さなドラムセット、アコベとギターのセットになり、ドラマーはまたカホンらしいものをたたいたりして、少し変わった雰囲気の曲をやったが、それで全体がぐっとよくなった。音楽はこれくらいコンパクトかつひねてなくちゃね、といういい感じだった。
このあたりからいい感じになっていく。
それから、本人が普段良くやっているというピアノ弾き語り。これがさすがに本領発揮といおう感じで、いい声が、キーボードの音域音質とよく合っていた。
戻って元のバンドセットになったが、突然みんな良くなった。吹っ切れたようなボーカル、バンドの一体感。ハンドクラップで全員立ち上がっているせいか、とてもいい感じになっった。そのまま終わってアンコールが一曲。
楽しい晩だった。
そして、どうも私はある一般論に気づいたらしい。
これはしおりさんのどうこうということではなく一般論であることを明言しておく。
簡単に言ってしまえば20代の小娘のライブから何が伝わってくるのか、と興味を持っていた。そうして気づいたのは、ここにある関係性が「あなた」と「わたし」、「きみ」と「ぼく」という形で完結していることだった。それ以外はない。
おそらく今のこれくらいの世代の歌のほとんどがそいういう関係性にまとめられるのではないかと思う。だからこれを一般論と言っておく。
「わたし」が「あなた」に思うこと、伝えたいこと。そこで世界が完結している。この関係性は世界の、他のどことも繋がっていない。今風の音使いで、音は羽ばたいて聞こえるが、つまるところは、その関係性以外の世界が見えてこないのだ。「きみ」と「僕」の関係は、どう、外の世界と、この日本と、世界と繋がっているのか?
背伸びをしてでもそういう世界に触れてみるのか、あるいは、それなりに年を経るにつれて、自然にそういうものに触れつつ「円熟」していくのか、そのあたりでどこか他と繋がるかどうかで、若いミュージシャンはその先の可能性や展開が変わってくるのだろうと思った。
しおりさんがこれからも伸びていけますように。
ライブはややぎこちなく始まった。バックはキーボード、ベース、ドラム、ギターが二つ。ドラムのPA処理がハードロック風というのかどーん、と響き渡る感じで、ホール&オーツ風とでも言うか、そんな感じだった。もうちっとコンパクトなPA処理にしたら、ボーカルがより映えるのではないかと思った。ドラマーはディアマンテスの人だそうで、ラテンバンドでやっていらっしゃるのが不思議なくらい後ろノリの人に感じられた。(PAのせいかもしれないが。)
そのうちに小さなドラムセット、アコベとギターのセットになり、ドラマーはまたカホンらしいものをたたいたりして、少し変わった雰囲気の曲をやったが、それで全体がぐっとよくなった。音楽はこれくらいコンパクトかつひねてなくちゃね、といういい感じだった。
このあたりからいい感じになっていく。
それから、本人が普段良くやっているというピアノ弾き語り。これがさすがに本領発揮といおう感じで、いい声が、キーボードの音域音質とよく合っていた。
戻って元のバンドセットになったが、突然みんな良くなった。吹っ切れたようなボーカル、バンドの一体感。ハンドクラップで全員立ち上がっているせいか、とてもいい感じになっった。そのまま終わってアンコールが一曲。
楽しい晩だった。
そして、どうも私はある一般論に気づいたらしい。
これはしおりさんのどうこうということではなく一般論であることを明言しておく。
簡単に言ってしまえば20代の小娘のライブから何が伝わってくるのか、と興味を持っていた。そうして気づいたのは、ここにある関係性が「あなた」と「わたし」、「きみ」と「ぼく」という形で完結していることだった。それ以外はない。
おそらく今のこれくらいの世代の歌のほとんどがそいういう関係性にまとめられるのではないかと思う。だからこれを一般論と言っておく。
「わたし」が「あなた」に思うこと、伝えたいこと。そこで世界が完結している。この関係性は世界の、他のどことも繋がっていない。今風の音使いで、音は羽ばたいて聞こえるが、つまるところは、その関係性以外の世界が見えてこないのだ。「きみ」と「僕」の関係は、どう、外の世界と、この日本と、世界と繋がっているのか?
背伸びをしてでもそういう世界に触れてみるのか、あるいは、それなりに年を経るにつれて、自然にそういうものに触れつつ「円熟」していくのか、そのあたりでどこか他と繋がるかどうかで、若いミュージシャンはその先の可能性や展開が変わってくるのだろうと思った。
しおりさんがこれからも伸びていけますように。
日曜日, 3月 29, 2009
首里フジコライブ@Café Cello: Sol
ラジオ番組「マジカルミステリーツアー」のpodcastは1時間近くの尺がある。通勤時に車内でposcastを聴くというワークフローでは、この長さだと時々途切れがちになる。しばらく聞いていなかったリストをみると、首里フジコの名前があった。どれどれ、と、聴いてみた。
するとしばらく病気で歌手活動をお休みしていて、ここ一年くらいで徐々にライブ活動を再開しているとのこと。あれまあ。
mf247で聞いて以来のファンなので、3/20、Café Celloでのライブに行くことにした。メンバーに知人のコウサカワタル氏もいてサロードを弾くというので、そのコンビネーションにも興味があった。
夕方近くまで読谷にいたので、かなりあたふたと会場へ向かった。那覇バスターミナル近くにあるカフェが会場。
あまり広くはない場所なので、みたところ50人くらいでほぼ満杯になっている。なんとか席を一つ見つけて座った。
ドラム、ベース、サロード、ボーカルという編成である。和音の出る楽器がない。というかどれも基本的に単音の楽器である。どうなることかと見ていたが、なかなか面白い感じの音楽になった。サロードはインドの楽器だが、弾き方によっては中近東的だったり、場合によってはチーフタンズ風のアイリッシュな感じに聞こえるのも不思議な感じだった。
ボーカルは、ハウリング気味のアンプのボリュームを少し絞っていて、ほんとうはもう少し音量が大きいとベストだったのだろうと思う。特にタップダンスと一緒にやる時は、タップの音量に負け気味だった。ボーカルの声はいい感じ。
首里フジコさんの隠れファンなので、リカバリーがスムーズに行ってほしいです。期待しています。
するとしばらく病気で歌手活動をお休みしていて、ここ一年くらいで徐々にライブ活動を再開しているとのこと。あれまあ。
mf247で聞いて以来のファンなので、3/20、Café Celloでのライブに行くことにした。メンバーに知人のコウサカワタル氏もいてサロードを弾くというので、そのコンビネーションにも興味があった。
夕方近くまで読谷にいたので、かなりあたふたと会場へ向かった。那覇バスターミナル近くにあるカフェが会場。
あまり広くはない場所なので、みたところ50人くらいでほぼ満杯になっている。なんとか席を一つ見つけて座った。
ドラム、ベース、サロード、ボーカルという編成である。和音の出る楽器がない。というかどれも基本的に単音の楽器である。どうなることかと見ていたが、なかなか面白い感じの音楽になった。サロードはインドの楽器だが、弾き方によっては中近東的だったり、場合によってはチーフタンズ風のアイリッシュな感じに聞こえるのも不思議な感じだった。
ボーカルは、ハウリング気味のアンプのボリュームを少し絞っていて、ほんとうはもう少し音量が大きいとベストだったのだろうと思う。特にタップダンスと一緒にやる時は、タップの音量に負け気味だった。ボーカルの声はいい感じ。
首里フジコさんの隠れファンなので、リカバリーがスムーズに行ってほしいです。期待しています。
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月曜日, 3月 16, 2009
発見
知っている人は知っているというだけのことだろうが;
Movieplusで「マーサの幸せレシピ」をやっていた。日本語版のタイトルからは想像できないダークなテイストの映画だった。それをドイツらしいというべきなのか…
物語の冒頭近くで、主人公の姉が交通事故死する。哀しみのシーンで鳴る曲の、ギターのようなそうでないようなアルペジオが、妙に気にかかった。
なんか、どこかでこれを聞いたような気がする…
それが思い出せない。頭を抱えてしばらく記憶を探ったが、ぜんぜん出てこない。家族に聞いても、心当たりがないという。しばらく考えて、ついにあきらめた。
ところが、記憶というものは、だいたいはそういうときにふっ、とよみがえってくるらしい。その曲を聞きながら映画に身を任せていたら、水の中を泳ぐ象が頭に浮かんだ。ああそうだ、あれだったのか…
手持ちのDVDを引っ張りだして見てみる。
それは、グレゴリー・コルベールの映像作品「Ashes and Snow」だった。何年か前にお台場の特設美術館で観たのだった。その中でグレゴリーが象と一緒に泳ぐシーンで、とてもよく似たテイストの曲が流れていたのだった。曲は違うが、これは間違いなく同じ演奏家のものだ。
それで調べてみた。Ashes and Snowと、映画の音楽をネットで突き合わせて比べる。同じ演奏家がいた。David Darlingという人だ。iTunes Storeで検索してみたら、その演奏家によるまさしく同じ演奏が現れた。なるほどやっぱりそうね。彼はチェリストで、アルペジオはギターではなくチェロによるものだった。
ということで、音とネットの情報をたよりに二つの音楽を結びつけた。楽しい推理であった。
Movieplusで「マーサの幸せレシピ」をやっていた。日本語版のタイトルからは想像できないダークなテイストの映画だった。それをドイツらしいというべきなのか…
物語の冒頭近くで、主人公の姉が交通事故死する。哀しみのシーンで鳴る曲の、ギターのようなそうでないようなアルペジオが、妙に気にかかった。
なんか、どこかでこれを聞いたような気がする…
それが思い出せない。頭を抱えてしばらく記憶を探ったが、ぜんぜん出てこない。家族に聞いても、心当たりがないという。しばらく考えて、ついにあきらめた。
ところが、記憶というものは、だいたいはそういうときにふっ、とよみがえってくるらしい。その曲を聞きながら映画に身を任せていたら、水の中を泳ぐ象が頭に浮かんだ。ああそうだ、あれだったのか…
手持ちのDVDを引っ張りだして見てみる。
それは、グレゴリー・コルベールの映像作品「Ashes and Snow」だった。何年か前にお台場の特設美術館で観たのだった。その中でグレゴリーが象と一緒に泳ぐシーンで、とてもよく似たテイストの曲が流れていたのだった。曲は違うが、これは間違いなく同じ演奏家のものだ。
それで調べてみた。Ashes and Snowと、映画の音楽をネットで突き合わせて比べる。同じ演奏家がいた。David Darlingという人だ。iTunes Storeで検索してみたら、その演奏家によるまさしく同じ演奏が現れた。なるほどやっぱりそうね。彼はチェリストで、アルペジオはギターではなくチェロによるものだった。
ということで、音とネットの情報をたよりに二つの音楽を結びつけた。楽しい推理であった。
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水曜日, 10月 08, 2008
10行アコースティックライブ
沖縄市のMoon Daughterで10行のライブがあった。といっても今回は「アコースティック」バージョンで、ボーカルのカリミさんとキーボードのヤッシーさんの二人だけ。
20人限定、なんてカリミさんがいうので、しかも10行のあの曲をピアノだけで?、というのにも興味を惹かれてさっそく予約した。

実は場所をまるっきり勘違いしていて、最初は首里の辺りだろうと勝手に考えていた。当日頃になってGoogleで場所を調べてみればそれは沖縄市。遠い。。まあしかしアコースティックの10行、というものの興味が勝って行くことにした。

結果、それはとてもよかった。
10行の曲はどれも、そんじょそこらの沖縄のバンドの曲より遥かに複雑度精密度が高いので、聴く方がそういうことに興味があると面白いが、普通に軽く聞きたい、といった聴衆にはすこしわかりにくいところがある。鼻歌にしにくい、というか、カラオケで歌いにくい、というか、そういう感じ。ジャズやらフュージョンやらドビュッシーやらストラビンスキーやらが好き、という人にはばっちりの曲たち。
それをピアノオンリーとボーカルというフォーマットで演奏すると、そのシンプルさで曲の複雑さがうまいこと乗り越えられていて、親近感が高く、カリミさんの声のよさがはっきりと出て来て、とてもいい感じだった。

ヤッシーさんは元の曲の複雑さを十分にカバーしながらピアノだけのちょうどいいフォーマットに置き換えていた。たぶんキース・ジャレット好きそうな彼の実力をあらためて感じた。

カリミさんの声の力、美しさが前面に出ていて、それを堪能できてうれしいライブだった。
このフォーマットで年末まで何度か?ライブがあるらしい。(直近は10/11の那覇祭りだそうな。)豊かな声の、ちょっと普通と違った音楽を聴きたい人には、お薦めです。
20人限定、なんてカリミさんがいうので、しかも10行のあの曲をピアノだけで?、というのにも興味を惹かれてさっそく予約した。

実は場所をまるっきり勘違いしていて、最初は首里の辺りだろうと勝手に考えていた。当日頃になってGoogleで場所を調べてみればそれは沖縄市。遠い。。まあしかしアコースティックの10行、というものの興味が勝って行くことにした。

結果、それはとてもよかった。
10行の曲はどれも、そんじょそこらの沖縄のバンドの曲より遥かに複雑度精密度が高いので、聴く方がそういうことに興味があると面白いが、普通に軽く聞きたい、といった聴衆にはすこしわかりにくいところがある。鼻歌にしにくい、というか、カラオケで歌いにくい、というか、そういう感じ。ジャズやらフュージョンやらドビュッシーやらストラビンスキーやらが好き、という人にはばっちりの曲たち。
それをピアノオンリーとボーカルというフォーマットで演奏すると、そのシンプルさで曲の複雑さがうまいこと乗り越えられていて、親近感が高く、カリミさんの声のよさがはっきりと出て来て、とてもいい感じだった。

ヤッシーさんは元の曲の複雑さを十分にカバーしながらピアノだけのちょうどいいフォーマットに置き換えていた。たぶんキース・ジャレット好きそうな彼の実力をあらためて感じた。

カリミさんの声の力、美しさが前面に出ていて、それを堪能できてうれしいライブだった。
このフォーマットで年末まで何度か?ライブがあるらしい。(直近は10/11の那覇祭りだそうな。)豊かな声の、ちょっと普通と違った音楽を聴きたい人には、お薦めです。
土曜日, 5月 17, 2008
水曜日, 3月 12, 2008
「白神山地」(ネイチャー・サウンド・ギャラリー)

かなりの音楽好きである。が、それはそれで少々困ることもある。音楽が鳴っているとそっちに集中してしまって、他のことに集中できないのだ。いまでこそかなりその傾向は弱くなって来たが、学生時代はもう全く意識が音楽に持って行かれていた。
なので今でも何かする時は音楽なしがいい。のだが、それでもなにかすこし耳に音が入るといいな、と思うことがあった。
何で読んだが忘れたが、集中するのに非常に役立つ音に「自然音」があるとのこと。水の流れる音とかそういうものだ。
それでこの「白神山地」というディスク?をiTSで買ってみたのだが、これがばっちりである。静かだが穴ぐらのような部屋にいる時など、世界が変わったように感じる。夜に、近くにきれいな空気と森があるような感じがするのだ。
一日ずっと鳴っていてもいい感じである。(水の流れる音だけは少し相対的なボリュームをしぼってみたが、その方がいいかもしれない。)
お薦めである。AmazonでもiTSでも買える。
火曜日, 3月 04, 2008
火曜日, 1月 22, 2008
下地勇「2007年忘れライブ」リウボウホール

某所で「言葉の力とはなにか」という議論を行った。その時に、居合わせた下地勇さんが言ったのだ。「自分は本土でライブもする。全く宮古言葉のわからないだろう人が、私の歌に涙を流す。そこにある言葉の力とはなんなのか」と。
私は宮古方言がさっぱりわからない。そもそも沖縄方言もほとんどわからない。ナイチャー(内地人)どころか、まるで外国人のようなものだ。そういう私に彼の歌はどう伝わるのか、とても興味を持った。
そこで下地さんの2007年年忘れライブに行った。自分で「言葉の力」を確かめるよい機会かも知れないと思ったからだ。
以下はそのライブの感想である:
彼は一人出て来てギターを握った。スーパーハイテクではないが、よく考えられたギターアレンジで、楽器一つで効果的に自分の音楽の世界を組み立てていく。
彼の声もまた魅力的である。伝えたい本物の気持ちがあるようだった。
しかし、そこまでだ。結局、私にはまったく言葉がわからなかった。
理解できない言葉の音楽を聴いている自分は、わからないものに対するものめずらしさ、サーカス見せ物の首(映画「栄光のル・マン」のサルテサーキットの、一晩だけの遊園地のシーンを思い出している)やアクロバットなどの芸当を見物するような気分であった。
が、彼の演奏は単に見せ物ではなかった。そこにはわからなくても面白い音楽があった。
彼が歌っている時の音声(おんじょう)は、時々言われているように、確かにフランス語的に感じられることがあって、私にとってはピエール・バルー(映画「男と女」の「ダバダバダ…」の作者でボーカリストで役者)を聴いているのとまるで変わらない。
あるいはカメルーン語で歌うリチャード・ボナを思い出す。
そして下地の曲には、バルーやボナの音楽から感じるような面白さ、音楽のよさがあるのだ。要するに彼の歌は音楽として面白い。十分に聴く価値がある。
あそこにきた人たちは何を求めていたのだろうか? 全ての人がかれの言葉を理解しているわけではないだろう。結局のところそこでコミュニケーションとはどう成立するのか?
完全にわかる人は、言葉の面白さを楽しむだろう。たとえば横でころころと笑っていたり、涙を拭いていたりしたつれあいがそうだ。
断片がわかる人は、その面白さを「わかりたい」という気持ちで補完して楽しむだろう。
全くわからない、私のような「外国人扱い」の者にとっては、周囲の雰囲気と彼の曲の音楽としての面白さが楽しめる。
下地勇サイドではどうだろうか。
状況と深く結びついた表現をすれば、状況が表現を補強し増幅するかも知れない。その先にわからない言葉に対する涙が生まれるのかも知れない。(それは今の私には結局答えられない質問だった)
わかる人の世界に限定するのか、私のような外国人扱いを含めた「不思議の世界」として展開するのか、説得力はどこに生まれるのか、そのあたりが思案のしどころだろう。
私は、不思議の世界のまま音楽の面白さとして真っ当に展開して行くといいと思う。それに耐えうるだけ彼の音楽は十分に面白い。
元ちとせを連想するのだが、彼女の特異なボーカル能力とオーラ、それと組み合わさった楽曲の先端性が気持ちがいいように、彼の音楽も気持ちがいい。
だから外国でライブするのもよいのかも知れない。言葉のわからない音楽全体として勝負してしまうのだ。たとえばニューヨークのライブハウスで演ってしまえば、下地勇もピエール・バルーもリチャード・ボナも元ちとせも立場は同じだ。
音楽ぎりぎりの世界から、言葉のコミュニケーションに頼れる世界まで、幅広いスペクトラムを渡り歩けるミュージシャンは、そうそういないのかも知れない。
私は、彼の言葉のわからない曲を毎日のようにiTunesで聞いている。意味のわからない何語でもいいじゃないか。気持ちがいいんだから。音楽とはそういうものでもある。
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