日曜日, 3月 02, 2014
映画「RUSH」
「すべての日本人の期待を背に、金メダルとれるか?」的なマスコミの浮かれ騒ぎは大嫌いで、その枠組みで騒ぎ立てられる勝ち負けのニュースに一喜一憂することは、ない。(そもそも見ていない。)
しかし、そういう浮かれ騒ぎの勝ち負けは抜きにして、コンペティション・スポーツで自らを鼓舞し、孤独に限界に挑戦している人たちのことは尊敬している。
中でも、我々の同時代の人で、最も敬愛しているのはニキ・ラウダだ。F1よりもラリーやル・マンが好きなわたしであるが、この人のことは本当に尊敬している。
Wikiなどに多くが書かれていることだが、75年のF1チャンピオンで、76年も好調であったが、ニュルブルクリンクの大事故で生死の境をさまよう。しかし顔面の半分をケロイドにしながら6週間後にはカムバック、その年はぎりぎりチャンピオンを逃すも、翌年再びチャンピオンに。いったんF1を引退したものの再びカムバックし、さらに3度目のチャンピオンになっている。
F1がまだ野蛮な構造のレースカーを使った肉体的なレースであった頃に、五感をフル動員して車の状態を感じ取り、問題点を修正しながら冷静なレース運びを行う姿に、ドライビングの理想を見た。
まじめで遊び付き合いが悪く、レーサー間で人気もないが、顔面のケロイドも気にせず、他人がどう思おうといいじゃないか、というスタンスでまじめに勝利を目指す。自分にはそのあり方がわかる、または自分に似ている感じがして、親近感がある。そういうのもありだよな、と自身が持てる。非常に今風ではないけれど。
実際に彼に聞いていたかどうかはわからないが、自動車雑誌のどれかに「ニキ・ラウダのドライビング・レッスン」のようなページがあり、わたしは少なくとも二つのことをそこで学び、実践し、今でも自然な動作になっている:
・正面の風景だけでなく、30秒間隔くらいで、計器類のどれかを、ちらっと順番に見ていくこと。それを注視するのは危険だが、ちらっと見たあとで頭の中で分析され、早期に異常に気づくきっかけになること。
・車線変更や右折左折の直前に必ずちらっとバックミラーを見ること。
自分がこれそのものに助けられた、という記憶はないが、ある種の用心深さと先読みが身に付いたせいか、免許取得以来40年以上事故とは無縁で来られた。(飛び込んできた猫に当たっちゃったことはあるけど)。
高速道路でのスピード違反以外は違反しないことも、その種の態度の一部かもしれない。
ということで、映画「RUSH」は好みである。イケメン・ヤリ放題の天才ドライバー、ジェームス・ハントと対照的かつ好意的に描かれているラウダが好きだから。
火曜日, 11月 03, 2009
「マイケル・ジャクソン This is It」

同時代を生きていると言っていい、がしかし、彼の音楽を特段気をとめて聴くことはなかった。それはビジュアルにもかっこいい音楽で、ある時代はいつでもそこにあり、またその後もよく耳にしていた音楽だった。とは言うものの私自身と特別なつながりがあるわけではない、普通の「街で流れている音楽」だった。
彼が亡くなり、映像が再び画面に出始めた。それを今見直してみて、この人がどれくらいすごいダンサーだったかがよくわかる。
他のダンサーとは全く体の動きが違う。ただ足をそろえて(「気をつけ」のように)立った、ただそれだけの姿が決まっていて、かっこいい。
同じように「ただ立つだけで決まる」ダンサーは一人しか知らない。それは、今は亡きフラメンコの鬼才、アントニオ・ガデスだ。「カルメン」や「恋は魔術師」で見た彼の姿は、踊りが全く異なるにもかかわらず、マイケルジャクソンと強く連想がつながる。
二人のその凄さがつながった時、人生で初めて、マイケルジャクソンを見てみたいと思った。そしてそこに「This is It」があったのだ。
見始めていきなり掴まれる。オーディションに現れた世界のダンサーたち。涙ながらに彼へのあこがれと今の自分を語る彼らの姿から、彼らにとってマイケルは神なのだと、すぐにメッセージが伝わる。
基本的にはリハーサルをつなぎ合わせた映像である。しかしそのリハーサルは念入りであり、そのものが完成品のごとくであり、音も含めて見て聴く価値が十分にある。すばらしい映像作品だと思う。マイケルは真摯であり、プロフェッショナルとして冷静であり、心遣いがある。そして彼が本物の音楽の才能持つ人であることもわかる。
そしてそれがリハーサルだからこその雰囲気もある。つまり我々観客は「中に」いるのだ。我々は観客が見るようなフッテージを見ながら、実はマイケルと行動を共にしている。そこのところの親密さが、不思議な暖かさをもたらしている。
映画の終わりに誰からともなく拍手が生まれたのも、最近の映画館ではなかなか見ない光景だった。
見る価値のある映像である。お薦めです。誰にとっても。
日曜日, 9月 06, 2009
「Man On Wire」

「フィリップ・プチ」という変わった名前の男のことを知ったのは、昔読んだthe New Yorker Magazineの記事だった。1999年のことらしい。1974年に、今はもう存在しなくなったニューヨークの世界貿易センタービルの二つのタワーの間を綱渡りした男のことだった。先日、これも惜しくもなくなってしまった番組「ストリーム」町山智浩氏の映画評でこの映画のことを知った。見たいものだと思っていたら、たまたま桜坂劇場で今日からやるとのことだったので、行ってきた。
ドキュメンタリーフィルムだが、元フィルムをちゃんとプチ氏が撮っていたところが凄い。彼の綱渡りは天賦の才能で、独学だそうだが、自由自在である。それが当時は善良でざざ漏れの警備体制の中で10回も事前調査をし、最後は前日晩から侵入し、泊まり込んでワイヤーを敷設し、綱渡りを始める。彼のうれしそうな顔が印象的だ。しかも8回も渡ったというのだから! スティーブン・ホーキング氏がゼロG飛行を、最初は1回のつもりが7回もやったのを思い出した。
この映画は、プチ氏の映画である共に、偶然にも今はなくなってしまった世界貿易センタービルの記録でもある。それにもなにか感慨深いものがある。
しかも、今日は偶然にも、ヒストリーチャンネルが9/11を特集していて、未公開フッテージを含んだ110分の映像を放送していた。プチ氏が渡ったあの塔が崩壊するのを、今日見たのも因縁めいていた。
日曜日, 8月 30, 2009
映画「サマーウォーズ」

鈴木敏夫氏のポッドキャスト「ジブリ汗まみれ」を聞いて、興味を惹かれたので観に行った。
パレットくもじで観た。映像は「時を駈ける少女」っぽく、今受けしそうな感じだ。
OZという世界を仮想し、そこで現実界とパラレルにストーリーが展開するのも面白い。グラフィックスOK、アクションOKである。
必ずしも悪いところがあるわけではない。
だが、何かうす味な感じがする。
集団的であって、個々に集中していない、個の描き方が足りない。また個同士の多重の組み合わさりがない。Emotionalな関係の深さが足りない。
たとえば個々にいる人たちの中で一番濃密な感情を抱えているはずの夏希と侘助の関係はそのままで何らかの発展や破局をもたないのか?、といったところだ。そこらへんでリアリティが薄められ、うす味を感じている。
登場人物の多重な関係の上手い組み合わさり方を絶妙に描いているのはたとえば「ロード・オブ・ザ・リング」であろうが、そういう複雑さがない。
「親戚」や「みんなの力」のようなものを視点に面白いストーリーにしているのだが、逆にその「親戚」に依存してしまった詰めの甘さがあると思う。
例えば今敏ならこの関係性を使ってどう表現したか?、などと考えるわけだ。
今時の「さらっと系」の人たちには大受けするのだろうと思う。
月曜日, 8月 10, 2009
「愛を読むひと」

movie:「愛を読むひと」監督:スティーヴン・ダルドリー、出演:ケイト・ウィンスレット、レイフ・ファインズ、デヴィッド・クロス、レナ・オリン他
原作はベルンハルト・シュリンクの「朗読者」である。「愛」をつけ、「ひと」をひらがなにして、なんとかキャッチーなタイトルにしようと悩んだ後が伺える。
原作を何年か前に読んだ。新潮社のちょっと変わった体裁のシリーズだった。ジュンパ・ラヒリの「停電の夜」と同じシリーズだったと思う。
主人公の男性が10代の頃知り合った女性との数奇な運命の巡り合わせと、苛烈で真摯な、しかし無知?が生んだ悲しい女性の過去が語られる。また言葉がいかにかけがえのないものであるかが。
映像的には、二人が再会するときの、どちらもまたたき一つせずに向かい合うシーンに全てが託されている。あの演技が出来るウィンズレットとファインズは素晴らしいと思う。
レナ・オリンもいつも通りの雰囲気をかもしている。
土曜日, 7月 04, 2009
映画「桜の園」
1990年公開の方。監督:中原俊、出演:中島ひろ子、つみきみほ、白島靖代ら。
吉田秋生原作のマンガの映画化。毎年創立記念日にチェーホフの「桜の園」を上演する女子校の少女達の、一日の物語。
プレネット時代の映画である。誰も携帯やパソコンでネットを持ち出さない。少女たちは、女子校の限定されたリアル空間で言語・非言語のメッセージを交換している。ストーリーもそれに見合ったスピード感覚で進む。
満開の桜の下、ゆっくりと、一呼吸・ひと呼吸に応じるような、微細で繊細な美しさが、すこしづつ、すこしづつ積み重なって、惹かれあう二人の少女が、ドウラン化粧のまま寄り添って記念写真を撮る場面に結実する。
近年の映画には全く見られることがなくなった、ある美しさ、それを実現する手法がここに記録されている。当時そのような観点でこの映画を捉える人はいなかっただろうが(なぜならこれが「普通の」世界だったのだから)、当時とは全く変質してしまった現代から見るとこれもまた滅びた美なのだろうか、それとも今の時代にもこれは成立するのだろうかと思う。
例によってもう忘れてしまった理由でDISCASから届けられた、意外で、突然の美だった。お薦めです。
(注:2008年のリメイク版もあるようです。お間違えなきよう。)
吉田秋生原作のマンガの映画化。毎年創立記念日にチェーホフの「桜の園」を上演する女子校の少女達の、一日の物語。
プレネット時代の映画である。誰も携帯やパソコンでネットを持ち出さない。少女たちは、女子校の限定されたリアル空間で言語・非言語のメッセージを交換している。ストーリーもそれに見合ったスピード感覚で進む。
満開の桜の下、ゆっくりと、一呼吸・ひと呼吸に応じるような、微細で繊細な美しさが、すこしづつ、すこしづつ積み重なって、惹かれあう二人の少女が、ドウラン化粧のまま寄り添って記念写真を撮る場面に結実する。
近年の映画には全く見られることがなくなった、ある美しさ、それを実現する手法がここに記録されている。当時そのような観点でこの映画を捉える人はいなかっただろうが(なぜならこれが「普通の」世界だったのだから)、当時とは全く変質してしまった現代から見るとこれもまた滅びた美なのだろうか、それとも今の時代にもこれは成立するのだろうかと思う。
例によってもう忘れてしまった理由でDISCASから届けられた、意外で、突然の美だった。お薦めです。
(注:2008年のリメイク版もあるようです。お間違えなきよう。)
月曜日, 3月 16, 2009
発見
知っている人は知っているというだけのことだろうが;
Movieplusで「マーサの幸せレシピ」をやっていた。日本語版のタイトルからは想像できないダークなテイストの映画だった。それをドイツらしいというべきなのか…
物語の冒頭近くで、主人公の姉が交通事故死する。哀しみのシーンで鳴る曲の、ギターのようなそうでないようなアルペジオが、妙に気にかかった。
なんか、どこかでこれを聞いたような気がする…
それが思い出せない。頭を抱えてしばらく記憶を探ったが、ぜんぜん出てこない。家族に聞いても、心当たりがないという。しばらく考えて、ついにあきらめた。
ところが、記憶というものは、だいたいはそういうときにふっ、とよみがえってくるらしい。その曲を聞きながら映画に身を任せていたら、水の中を泳ぐ象が頭に浮かんだ。ああそうだ、あれだったのか…
手持ちのDVDを引っ張りだして見てみる。
それは、グレゴリー・コルベールの映像作品「Ashes and Snow」だった。何年か前にお台場の特設美術館で観たのだった。その中でグレゴリーが象と一緒に泳ぐシーンで、とてもよく似たテイストの曲が流れていたのだった。曲は違うが、これは間違いなく同じ演奏家のものだ。
それで調べてみた。Ashes and Snowと、映画の音楽をネットで突き合わせて比べる。同じ演奏家がいた。David Darlingという人だ。iTunes Storeで検索してみたら、その演奏家によるまさしく同じ演奏が現れた。なるほどやっぱりそうね。彼はチェリストで、アルペジオはギターではなくチェロによるものだった。
ということで、音とネットの情報をたよりに二つの音楽を結びつけた。楽しい推理であった。
Movieplusで「マーサの幸せレシピ」をやっていた。日本語版のタイトルからは想像できないダークなテイストの映画だった。それをドイツらしいというべきなのか…
物語の冒頭近くで、主人公の姉が交通事故死する。哀しみのシーンで鳴る曲の、ギターのようなそうでないようなアルペジオが、妙に気にかかった。
なんか、どこかでこれを聞いたような気がする…
それが思い出せない。頭を抱えてしばらく記憶を探ったが、ぜんぜん出てこない。家族に聞いても、心当たりがないという。しばらく考えて、ついにあきらめた。
ところが、記憶というものは、だいたいはそういうときにふっ、とよみがえってくるらしい。その曲を聞きながら映画に身を任せていたら、水の中を泳ぐ象が頭に浮かんだ。ああそうだ、あれだったのか…
手持ちのDVDを引っ張りだして見てみる。
それは、グレゴリー・コルベールの映像作品「Ashes and Snow」だった。何年か前にお台場の特設美術館で観たのだった。その中でグレゴリーが象と一緒に泳ぐシーンで、とてもよく似たテイストの曲が流れていたのだった。曲は違うが、これは間違いなく同じ演奏家のものだ。
それで調べてみた。Ashes and Snowと、映画の音楽をネットで突き合わせて比べる。同じ演奏家がいた。David Darlingという人だ。iTunes Storeで検索してみたら、その演奏家によるまさしく同じ演奏が現れた。なるほどやっぱりそうね。彼はチェリストで、アルペジオはギターではなくチェロによるものだった。
ということで、音とネットの情報をたよりに二つの音楽を結びつけた。楽しい推理であった。
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土曜日, 12月 06, 2008
「アズールとアスマール」

はじめは何がきっかけだったか確実でないのだが、たぶんピーター・バラカンさんがやっている東京ミッドタウンのポッドキャストだったような気がする。誰か音楽プロデューサーかなにかの人が来ていて、「今面白い音楽」ということで中近東系のミュージシャンを挙げていた。その中の一人が「スアド・マシ」という人。
全然知らない人だったのでiTuneStoreで調べた。そうしたら「アズールとアスマール」という映画のテーマソングを歌っていた。allcinemaで映画を調べた。たぐっていくとそれはスタジオジブリが日本語版を作成していた。ふむ。
それをツタヤDISCASで借りて観た。
おそらくヨーロッパに来ているアラビア系の女性が、乳母として白人で青い眼のアズールと、自らの黒い眼のアスマールを、兄弟の様に育てる。二人は囚われのジンの妖精の話を乳母から聞き、大きくなったら妖精を救いに行こうと心に決める。
少年になると、アズールはアスマールと引き離され、乳母とアズマールは土地を追われ、国へ追い返される。
だが大きくなったアズールは子供の頃の決心を忘れなかった。ジンの妖精の住むというアスマールの国に向かうが、そこは「青い眼は不吉な呪いの印」と白人を忌み嫌う土地だった。そこでアズールはアスマールと再び出会い、ジンの妖精を救い出す旅に出かける。
オリジナルの映像はフランス語とアラビア語で進んで行く。日本語版ではフランス語が日本語に置き換えられているが、アラビア語はそのままである。しかもフランス語版でも日本語版でも、アラビア語の会話には、いっさい翻訳も字幕もつかない。
価値観や差別の逆転した異国の、通じない言葉が日常的に話される世界がそのままに表現され、ファンタジーに不思議なリアリティを与えている。
フラットに描かれた3Dのキャラクターと2Dの背景が、面白いアニメを生み出している。アニメとして自然で、かつゴージャスである。
ストーリーの最後のペアリングの関係の妙が作者の世界観を表している。
「アッサラーム・アレイコム」「アレイコムアッサラーム」とキャラクター達が挨拶する。この二つの言葉は、昨年私がカシュガルへ行くにあたって覚えて行った数少ないウイグル語であったが、それはこの世界でも話されていた。懐かしく、親密で、面白い。
どうもこれから沖縄では上映されるらしい。先にDVDで観てしまった。。
日曜日, 8月 17, 2008
「ダークナイト」

「ダークナイト」 クリストファー・ノーラン監督、クリスチャン・ベイル、マイケル・ケイン、ヒース・レジャー、ゲイリー・オールドマン、アーロン・エッカート、モーガン・フリーマン他
バットマンの映画にはあまり興味がない。ジョージクルーニーがでていたな、それからなんとかいう元コメディアンの人?、シュワルッネーガーが悪役、ジャック・ニコルソンの奇演が面白かった、などなど。アメリカンヒーローもので、テイストとしてはコメディチックなホラーなような、というイメージであった。まあテレビでやっていれば見るかな、といった感じ。
町山智博という人がポッドキャストをやっている。最近の彼の番組で彼がハリウッドの今について語っていた。いわくハリウッドはもうコミック原作ものか、漫画しか撮れない。アカデミー賞にしてもそういうものばかり。製作資金は投資銀行が握っており、彼らは外国人の投資家に知名度のあるコミックであることをキーに出資を依頼する。などなど。
そういう話を耳にしていたのと、今回の主人公をクリスチャン・ベールがやる、ということ(わたしは「アメリカン・サイコ」を見て以来、この怪しい雰囲気の俳優が好きなのだ)、この映画を撮り終わってから死んだヒース・レジャーという俳優が迫真の演技をしていてアカデミー賞候補になっているらしいことなどに興味を惹かれて観に行った。
ストーリーは、アウトローの正義の代理人、あるいは「必殺仕置人」としてのバットマンを描いている。その中でのヒース・レジャーは、やはり光っている。彼は死なずにいれば、本当に次のジャック・ニコルソンになっていたのかもしれないと思う。
町山智博が言っていたが、コミックものしか作れないことを逆手に取って、そこでシリアスな表現を試みた映画ということかもしれない。ヒース・レジャーを見るためだけにも行く価値のある映画だと思う。
おまけにマイケル・ケイン、ゲイリー・オールドマン、モーガン・フリーマンである。どおいうこっちゃねん?、という贅沢な布陣。ヒロインが一番、影が薄いかもしれない。
土曜日, 7月 12, 2008
火曜日, 5月 13, 2008
映画「モンドヴィーノ」

「モンドヴィーノ」興味深い記録映画をテレビで観た。2004作、ジョナサン・ノシター監督。監督本人がソムリエだそうだ。
始めを少しだけ見過ごしたようだが、アメリカの巨大資本ワイン醸造業者、ロベール・モンダヴィのフランス進出計画が頓挫したところから見始めた。フランス、ボルドーへの進出は、市長交代劇を伴った(共産党市長が生まれた)地域での反対により頓挫した。
その後、ルポルタージュは世界各地を周り、最後にそのモンダヴィが、イタリアへの進出を決めたところで終りとなる。
背景にあるのは「ワインのグローバリゼーション」だ。モンダヴィをメインプレイヤーとするカリフォルニア風の濃いワインが巨大資本を元に世界各地に進出し、テロワール(その土地の風土)を無視した、「どこで作っても同じ」濃くて凝縮された赤ワインの製造を行っている。そこではミシェル・ロランのラボが世界の各地で濃いワインの生産方法を指導しており、また点数制のワイン評価で「カースト制と貴族支配のワインの世界へアメリカの民主主義を導入した」というロバート・パーカーが評価の形成に大きな力を発揮している、と。
早飲みワインと熟成型ワインの対立でもある
モンダヴィ一族、ロラン、パーカーらと並んで、世界各地の個性的な作り手がインタビューに答えている。個性派はそれぞれが哲学者であり、さまざまな文化に造詣が深い。「偉大なワインを造るのは詩人の仕事だ。」と彼らは言う。
ワインの世界を、自分では普段はあまり見ない視点から表現していたのが興味深かった。よくはわからないが、新世界ワインよりもフランスのワインに面白みを感じている自分自身の好みの偏向の理由を外側から指摘されたようで「なるほどな」と思ったものだ。
土曜日, 4月 05, 2008
永井荷風と「濹東綺譚」
「濹東綺譚」永井荷風原作の小説の映画化である。1992年・新藤兼人監督作品。

先日「永井荷風のシングル・シンプルライフ」という展覧会が世田谷文学館で開催され、それを見に行った。(4月6日まで開催中。)
まるで「ついでのような」行き方だったのだが、左翼的?な考え方を持ちながら、それを裏返すように耽美的・風俗的小説を書くようになった作者に興味を持った。今の時代からはどうもよくわからない人、という感じがする。それくらい(少なくとも私は)昔のことがわかなくなっているのだ、と思った。岩波文庫の「断腸亭日乗」を借り、「濹東綺譚」のDVDをレンタルした。


その永井荷風を映画では津川雅彦が演じる。観ていて惹かれるのは主役「お雪」を演じる墨田ユキの魅力だ。元々AV女優をしていて、この作品ではじめて普通の?映画に出演し、数々の賞を受賞したそうだが、顔立ちが浮世絵的で、これをそのままなぞってCGででも描いたらそのまま浮世絵になるのではないか、という面影だ。他方では荷風のユニークな?シングルライフ人生に関するある見方を象徴的に提示していて、それをみているのが面白かった。
明治〜大正〜昭和初期は実に不思議で面白い時代であったようだ。

先日「永井荷風のシングル・シンプルライフ」という展覧会が世田谷文学館で開催され、それを見に行った。(4月6日まで開催中。)
まるで「ついでのような」行き方だったのだが、左翼的?な考え方を持ちながら、それを裏返すように耽美的・風俗的小説を書くようになった作者に興味を持った。今の時代からはどうもよくわからない人、という感じがする。それくらい(少なくとも私は)昔のことがわかなくなっているのだ、と思った。岩波文庫の「断腸亭日乗」を借り、「濹東綺譚」のDVDをレンタルした。


その永井荷風を映画では津川雅彦が演じる。観ていて惹かれるのは主役「お雪」を演じる墨田ユキの魅力だ。元々AV女優をしていて、この作品ではじめて普通の?映画に出演し、数々の賞を受賞したそうだが、顔立ちが浮世絵的で、これをそのままなぞってCGででも描いたらそのまま浮世絵になるのではないか、という面影だ。他方では荷風のユニークな?シングルライフ人生に関するある見方を象徴的に提示していて、それをみているのが面白かった。
明治〜大正〜昭和初期は実に不思議で面白い時代であったようだ。
木曜日, 2月 28, 2008
「スパニッシュアパートメント」

「スパニッシュアパートメント」監督:セドリック・クラピッシュ、出演:ロマン・デュリス、ジュディット・ゴドレーシュ、オドレイ・トトゥ、セシル・ドゥ・フランス、ケリー・ライリー他
フランスからスペインへ一年留学したエリート青年の物語。しかし学校の生活は一つも出てこない。恋愛を中心とした人間関係がユーモラスに描かれる。「あなたが女だったらいいのに」といいながら主人公に愛撫のしかたを指導するレズのルームメイトなど、役者が魅力的だ。
「いま風」のスタイリッシュな映像表現がスピーディでいい。2002年発表にしてはやたらと古いマックがぼろぼろとでてくる。時代を演出している?にしてもこだわりだ。
ヨーロッパ世界の等身大の青年像、ということなのだろうが、「等身大」のありかたが日本とちがうのか、その表現力の違いか、青年たちは率直で、原則的で、こどもっぽくない。常に大人になりたいと思っているあちらの世界の人々と、「大人になりたくない日本人の若者」のイメージの差なのか。
土曜日, 2月 16, 2008
「アンジェラ」
水曜日, 2月 06, 2008
映画「パーフェクトブルー」

監督:今敏、声の出演:岩男潤子、松本梨香他
アイドルから女優を目指した少女におこるストーカーストーリーを、なんとアニメでマジにやってしまおうという試み。
1998年公開。10年前のことだ。
アニメでホラーテイストのストーカーストーリーをやるという枠組みに「やりやがったな」と思う。劇中に「国内でサイコスリラーをやるとどうしてこうなるかねえ」という台詞があるのだが、これは意味深だ。:)
このせいか成人映画指定になってしまった「劇中のレイプ」シーンやヘアヌードの表現、サブリミナル的映像など、心理劇やリアリティの世界は、アニメ界ではおよそ試されてこなかったと思うが、やってみれば意外に惹かれる。
女優へと路線転換して悩み、錯乱しつつ恐怖の体験をする2Dキャラの主役に感情移入までするのはさすがに難しいのだが、状況の恐怖感は感じる。
「東京ゴッドファーザーズ」で今敏という監督に興味を持ち、以後時系列とはばらばらに「パプリカ」「パーフェクトブルー」と観てきたが、この人は一貫してリアリティをアニメ界に持ち込む試みをしていて、そこのところが面白い。TGFの時に「なんで実写じゃないんですか、この映画は」と感じたのを思い出す。
発表年が比較的近い「新世紀エヴァンゲリオン」(1995)ではこのような感覚部分のリアリティはあまり意識しなかったが、1998のこれは進歩と言えるのかもしれない。
でもなんで「パーフェクトブルー」?と思ったが、これは竹内義和の原作のタイトルで、ストーリーからは意味不明。
観た順番は逆だが、ここからみると「パプリカ」はより映像表現に寄っているので、ここまでのリアリティは感じられない。まあストーリーがストーリーなので「なにがリアリティだよ」ということでもあるが。
今敏監督の映画は、アニメで観客はどう感情を呼び起こされるのか、されないのかを考えるよすがとなる作品群だと思う。興味深いことだ。
火曜日, 2月 05, 2008
映画「パプリカ」

監督:今敏、原作:筒井康隆『パプリカ』、声の出演:林原めぐみ、古谷徹、江守徹他
筒井康隆の原作を基にしたアニメ映画。夢と現実の境界がない世界を、過剰で圧倒的な絵の力で表現している。自宅でDVDで観たのだが、映画館のフルスクリーンで観るとまたちがった迫力もあったかもしれないと思う。そちらにも興味がある。
原作を読んでいないが、原動力となる筒井康隆の、飛びまくったイメージが今敏を刺激したのだろう。さすがだ、という感じ。
監督は楽しんでいる。元のストーリーをなぞるのでなく原作を膨らませ、別の方向へも展開し、原作者の意を汲んでさらに驚かせたい、とのこと。クリエイターとしてはいいんじゃないかと思う。
この作品に限らないことだが、アニメの限界、人(実写)の限界ということを、この作品からも考える。アニメは動作がぎこちなく、感情表現の微妙さに欠ける。3Dでも同じ。人の実写だとアンリアルなシーンのの表現でのSFXのバレに限界を感じ、面白くない。どこにも答えがない。不思議と映画「アンドリュー」では、そこのところを感じなかった気がするが、あれはロビン・ウィリアムスという稀代の役者を得たことで成立しているのかもしれない。
アニメだとイメージだけを提供するこれがよいのか? それとも「AppleSeed」のあたりまでリアリティに寄り添うのがいいのか? 答えの見つからない疑問だ。
平沢進という人の、バックグラウンドミュージックはよいのだが、テーマソングのチープ感は勘弁してほしい、という感じだった。わざとチープな打ち込みを演出しているのだろうか。チープなカルチャーの浸透を感じさせ、薄ら寒い。(演出なんでしょう、きっと。)
夢や他人の記憶の記録に関わった映画としてダグラス・トランブルの「ブレインストーム」と、もう一つミレニアムの頃の犯罪サスペンス映画を思い出したが、後者はどうしてもタイトルが思い出せない。。→「ストレンジ・デイズ」でした。ありがとう>マイミクさん。
一見の価値がある作品です。この「パプリカ」は。
水曜日, 1月 30, 2008
「A」「A2」森達也+安岡卓治


movie:「A」「A2」森達也+安岡卓治。オウム真理教による地下鉄サリン事件から5年後の2000年頃に、その後のオウム真理教の渉外・広報担当をしていたアラキ氏に密着するような形で記録されたドキュメンタリー。
大体において上九一色村のサティアン解体から、信者拠点が転々と設置、退去を繰り返しながら、上祐氏の釈放とアーレフへの改名、の頃までとなる。
「真実のドラマは、まだ何も知らされていない」という映画のコピーがいう通り、一般のマスコミ報道からは全く見えることのなかったオウム信者の日常生活と社会との関わりが記録されている。
「A」における一番の山場は、警察による一人の信者の(ほとんど)不当?逮捕に等しい取り扱いのシーンであった。身分を明かさないことを理由に挑発し、もみ合いから警官と信者が地面に倒れ込み、明らかに「フリ」をして膝を押さえて地面にすわっている警官の仲間がパトカーを呼び、相手の信者を逮捕していく。こういう風にするのか、と、警察の真実の一面を見た気がした。
この時の森のビデオ記録は、彼の決断で弁護士に一任され、それをキーとしてなのか、くだんの信者は起訴されることなく釈放された。
この森達也という人は、オウムにも警察?にも与しないことを宣言しているのか、内部を相当に深くまでカメラ取材しているようだ。ほかのマスコミがいっさいシャットアウトされている場所に、彼(と相方の安岡卓治)だけがハンディカメラでするすると入って取材している。
主な拠点を解体させられたオウム信者はあちこちに離散していくが、その先でもさまざまに近隣住民から排斥される。その中でも興味深い記録がされている。
ある地域では、監視テントができて住民がオウム信者の拠点を監視していたが、そのうちに仲良くなってしまい。信者と住民は和気あいあい、地域住民との交流の場になっている。バラバラだった地域の住民が、この監視活動を契機に一致団結というか絆が深まっている。
そういう場面は普通のマスコミのカメラが来ていてもそれを撮らないし、撮っても放送されたことはない、とのこと。
その監視所を撤去することになり、いらなくなった監視テントを信者と住民が一緒にばらす。ばらすテントからパーツをもらう信者。
監視所がなくなってもやってきて、ゆんたくしていく「ボランティア」の住民たち。ここでは一種の和解が成立している。「混乱している」という住民。
信者がここを退去することになり、「元気でな」「脱会したら遊びにこいよ」といってさよならする住民。
住民に本をくれといわれて教団の本を渡していく信者。「まっ直線なのがいい」「いなくなると寂しくなる」という住民。これが本来的な布教という活動の姿なのかもしれない。
松本サリン事件の被害者に会いにいく教団幹部たち。河野さんに「謝罪は必要ない」と言われ、当惑し河野氏の眼前で悩む信者。割り込むマスコミ。「ちゃんと肚くくって、まとまってから来なきゃ話にならない」「ちゃんと事前に決めてこないと。そういうことが世の中につたわる」と、別室を借して信者に会見内容を検討し直すよう促す河野氏。
精神異常者専用の施設があった。そこは人家から遠い。そこで別の信者を監禁をしたといわれ、逮捕された信者。また衰弱したからと警察により救急車にのせられて連れ出された信者。警察が「マスコミにいっちゃったから入院させてくれ」と病院に頼む。マスコミは現場を見知っているのに「警察報道」をそのまま伝える。報道弱者としての現実。
オウム信者が住み着いたために排除運動を始める住民たち。「みんなで追い出しましょう!」「我々は地下鉄サリン事件を忘れないぞ」
集会を開いて信者宅に面会しにいくが、家の中に招かれても断って、外に出て、スピーカーで「でていけー」と叫ぶ住民。中にはよく聞こえていない。「凶暴な集団」という非難をよそに静かに暮らす信者たち。どうしてよいかわからない、ややこっけいな住民運動。
その他もろもろ。とにかくどこにでもするする入れる森さん。
全体に、信者の現実とのつながりの薄さ?のようなものを感じた。身ぎれいさ、さわやかさとうらはらの、室内の汚らしさ。崇高さとチープ感。粗食で明るい人たち。その明るさ、一直線さ、と、その住んでいるところの汚さ、扱っているもののチープさ、未熟さ?の落差が印象的だった。
一般報道には全く出てこない側面をたくさん見ることができた。
日曜日, 1月 06, 2008
二つの映画
初釜と新年会を楽しく過ごし、帰宅していきなりその気になり、まだみていないレンタルDVDをプレイした。タイトルは「バベル」

あまりにアンリアルで不条理な「運命の不思議」にみえるが、実は不思議でも何でもなく、人生の歯車がちょっとかみ合い損ない、連鎖が成立してしまえば、まるで自然な流れのごとくがらがらと行くところまで行ってしまうリアリティがある。
そのリアルな物語がいくつか組み合わさって、運命の不思議、縁(えにし)までを感じさせる。
そしてどのストーリーにも、またその組み合わさった妙にも、その背景にも、「バベル」という言葉が意味するコミュニケーションの不能性が染み込んでいる。
一瞬も目が離せなかった。奇異で悲惨なシチュエーションが、次はどうなってしまうのだろう、と見逃せない感じ。つかみきって放さない。まさしく力強い物語の持つ力だと思った。
見終わって、夕食を済ませ、ふと誰かがテレビをつけたら、たった今始まったばかりの映画があった。それが二つ目だ。ハイビジョン日曜シネマ「花嫁のパパ」。

イタリアに留学していた22歳の娘が、帰ってくるといきなり「フリーランスの情報通信コンサルタント」をしているというリッチファミリーの青年と結婚する、という。若い二人に押し切られ、結婚式が計画され終わるまでの父親の不安や哀しみや期待を父親役のコメディアンのスティーブ・マーティンの視点で描く。
ストーリーは完全に思った通りのな予定調和展開で進み、なにかひねりがあるんじゃないかという、ある種の期待がまったく外されてそのまま終わってしまう。
「バベル」とは完全に対極にあるような映画だ。
前者は147分。この間、時計を見た記憶がない。気がついたら終わっていた。後者は102分。「なにかひねりは?」と思いながら見続け、それが起りそうもないとわかると「バベル」との違いを考えながら見続けた。結局はこらら二つを等しく最後まで観てしまう我々はいったいなんなのか、と考えてしまうことであった。

あまりにアンリアルで不条理な「運命の不思議」にみえるが、実は不思議でも何でもなく、人生の歯車がちょっとかみ合い損ない、連鎖が成立してしまえば、まるで自然な流れのごとくがらがらと行くところまで行ってしまうリアリティがある。
そのリアルな物語がいくつか組み合わさって、運命の不思議、縁(えにし)までを感じさせる。
そしてどのストーリーにも、またその組み合わさった妙にも、その背景にも、「バベル」という言葉が意味するコミュニケーションの不能性が染み込んでいる。
一瞬も目が離せなかった。奇異で悲惨なシチュエーションが、次はどうなってしまうのだろう、と見逃せない感じ。つかみきって放さない。まさしく力強い物語の持つ力だと思った。
見終わって、夕食を済ませ、ふと誰かがテレビをつけたら、たった今始まったばかりの映画があった。それが二つ目だ。ハイビジョン日曜シネマ「花嫁のパパ」。

イタリアに留学していた22歳の娘が、帰ってくるといきなり「フリーランスの情報通信コンサルタント」をしているというリッチファミリーの青年と結婚する、という。若い二人に押し切られ、結婚式が計画され終わるまでの父親の不安や哀しみや期待を父親役のコメディアンのスティーブ・マーティンの視点で描く。
ストーリーは完全に思った通りのな予定調和展開で進み、なにかひねりがあるんじゃないかという、ある種の期待がまったく外されてそのまま終わってしまう。
「バベル」とは完全に対極にあるような映画だ。
前者は147分。この間、時計を見た記憶がない。気がついたら終わっていた。後者は102分。「なにかひねりは?」と思いながら見続け、それが起りそうもないとわかると「バベル」との違いを考えながら見続けた。結局はこらら二つを等しく最後まで観てしまう我々はいったいなんなのか、と考えてしまうことであった。
火曜日, 12月 11, 2007
「空軍大戦略」

映画が戦争の何を語るのか、ということについてはさまざまな意見があるだろう。これはその中の、どんな部類に入るのか。それも見る人によって違うのだろう。
本作は「バトル・オブ・ブリテン」と呼ばれた、第二次大戦でのドイツ軍によるイギリス上陸作戦の前哨戦となった、ドーバー海峡とイギリス上空の制空権をめぐる空戦を描いている。結果的にこの戦いはイギリスの勝利となり、ドイツ軍はイギリスを占領することがなかった。
これを、ジェームス・ボンドシリーズの英国チームが映画化した。その際に、世界各国に離散していたスピットファイア、ハリケーン、メッサーシュミット、ハインケルなどの実機を集め、特殊効果のための特撮はあるものの、基本的にそれらの実機により大規模な空中戦を空撮で再現するという大胆な手法で、ものすごくリアルなイメージを持つ作品となっている。公開は1969年。あの「2001年宇宙の旅」が1968年公開であるから、この映画の空撮の努力がどれだけのものであったかは推測できるだろう。「CG」は存在しないのだ。
以前に「宮崎さんのお薦め」として「ダーク・ブルー」という映画(スタジオジブリ「提供」である)を紹介した。その時は「空撮は『空軍大戦略』より上を行っている」と書いたのだが、あらためて見直してみると、こちらもまったく侮れないのであった。
歴史の一断面を描いている、ということと、そのリアリティがもたらすイメージという点で、まれにも薦めたい戦争映画の一つである。
この作品にしろ「チキ・チキ・バン・バン」にしろ、イギリスはやる時はやるぜ、という感じがうれしい。
金曜日, 11月 02, 2007
「やかまし村の子どもたち」ラッセ・ハルストレム
やかまし村の子供たち
ラッセ・ハルストレム監督の映画である。私が彼の名前で思い浮かべるのは「ショコラ」だ。
ヒマナイヌの川井さんがmixiでレビューしているのを見て借りて観た。
北欧の、分厚い緑につつまれた村で、6人の子どもを中心に、「ただの生活」の風景が描かれる。
それだけの話だ。
しかし、「生きるとはこういうことなのだ」という、当たり前の、とても大切なものを突きつけられる気がする。
これは、日本がなるべきであった世界なのだ。普通の人々の日々の生活が安定していて、真っ当に暮し、次世代を育てる。生き続ける自然の美があり、人々がナチュラルな自然体で暮らしていくことが出来る。
バブル期からこちら、ITだ「勝ち組」だと浮かれ騒ぎ社会資本整備を忘れ、「中流」と言われた階層がいつの間にか貧困層になっていき、人々のありようが先鋭化し、他人を自分の利でしかみない社会とは対極のものだ。北欧の小国に対するあこがれを強く感じる。これが物語の中の世界であると知っていても、だ。
いつか、こういう世界にいたいという、理想が生まれる。忘れるべきでないもの、社会のありようも、海外派兵もなにもかも、そこから全てを見直すべき土台を感じる。
ラッセ・ハルストレム監督の映画である。私が彼の名前で思い浮かべるのは「ショコラ」だ。
ヒマナイヌの川井さんがmixiでレビューしているのを見て借りて観た。
北欧の、分厚い緑につつまれた村で、6人の子どもを中心に、「ただの生活」の風景が描かれる。
それだけの話だ。
しかし、「生きるとはこういうことなのだ」という、当たり前の、とても大切なものを突きつけられる気がする。
これは、日本がなるべきであった世界なのだ。普通の人々の日々の生活が安定していて、真っ当に暮し、次世代を育てる。生き続ける自然の美があり、人々がナチュラルな自然体で暮らしていくことが出来る。
バブル期からこちら、ITだ「勝ち組」だと浮かれ騒ぎ社会資本整備を忘れ、「中流」と言われた階層がいつの間にか貧困層になっていき、人々のありようが先鋭化し、他人を自分の利でしかみない社会とは対極のものだ。北欧の小国に対するあこがれを強く感じる。これが物語の中の世界であると知っていても、だ。
いつか、こういう世界にいたいという、理想が生まれる。忘れるべきでないもの、社会のありようも、海外派兵もなにもかも、そこから全てを見直すべき土台を感じる。
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