岩手県遠野市から小包が届いた。懇意にさせていただいている方からで、今年は遠野物語出版100年だそうな。遠野に関係した本3冊と1月1日付の遠野の新聞をいただいた。うれしいものです。ありがとうございます。隅から隅まで読んでいるところ。
火曜日, 12月 23, 2008
日曜日, 10月 19, 2008
「源氏物語」与謝野晶子版

自分が日本の古典の超大作を読破? まあまずはそれが嬉しい。
恥ずかしながらこの物語を読み通したのは今回が初めてである。与謝野晶子版を、上巻は文庫で、それ以降はiPod touchのFileMagnetに青空文庫版を転送して読んだ。FileMangetは画像ファイルも転送して読めるので、ネット上にある源氏物語の家 系図もいくつか転送し、人間関係が混乱するとそれを参照しながら読んだ。こうして使ってみるとこのiPod touchは非常に便利である。
とても面白かった。そう思えるまず第一は現代語訳になっているからで、そうでもないと全く手が出ない。教養のなさに恥じ入るところである。
女流文学、というものをこれまで意識したことがなかったが、この本には人間関係の機敏の捉え方やストーリーの展開とその中の山場の位置、中に現れる男たち の全般的ないい加減さなどに「女性の視点だな」と新鮮に感じられるところがいくつもあった。気がつけば読んで来たフィクションで女性によるものといえばパ トリシア・マキリップ、J.K.ローリング、L.M.ビジョルドくらいで、しかもみな翻訳物。これではねえ、という感じだ。

前から持っている「源氏物語みちしるべ」という本があるのだが、本文のハイライトの原文・解釈、当時の生活の状況や地図、位階など、源氏物語の周辺情報がコンサイスにまとまっていて、なかなかよい本である。
読み終わってからあらためて、五島美術館での源氏物語絵巻の展観図録など、手持ちの関係書籍などを見渡しながら、読み知ったことを自分の過去の知識の枠組みとつなぎあわせている。これがまた面白い作業で、知的作業の醍醐味を感じている。
金曜日, 6月 27, 2008
「蟹工船ブーム」への驚き
参照できるリソースはこちら。また「NHKニュース 蟹工船」でぐぐるとネットの話題になっているらしいこともわかる。
率直に、驚いた。「あれが再び読まれる時代になったとは」という驚きだ。
労働者が連帯する、団結する。社会にモノをいう。そういうことが、当事者、しかも若い世代に、まじめに再発見されている。
長野のオリンピック聖火騒動のときのデモと同じように驚いた。
こちらには、このブームに関する、ややペシミスティックな見方もある。もとの小説のプロレタリア運動との関係と、その核になった共産主義・社会主義の崩壊、管理社会における声をあげることの難しさなどを元に、革命ファンタジーへの現実逃避ではないか、としているわけだが、そう複雑なことでもないのではないか?、と思う。
そこまで行かずとも(というよりも、そこまでは行かずに)、社会にモノをいうこと、「自分だけじゃないんだ」と思うことや、人によっては連帯をすることを通じて他人を思いやることに気づいて、行動しているように見受けられる。
「連帯」や「団結」という言葉には「古くさい」イメージがある。それが今の社会だ。そこにあって、「『蟹工船』を越えて貧困を語るリアリティのある言葉を生み出せなかった」ことには、私も同意できそうな気はする。(もっとも大して本を読んでいないので、私にはそれを断言する自信がないが。)
「蟹工船」など読まれない社会の方がよほど幸福だろうことも、そう思う。
が、まあ、今の人たちはここからも何かをみつけて行くのではないだろうか。そのことには希望を感じている。
他方では、国営放送NHKがなぜこれを話題に?、とは思う。それほどブームになっている?
率直に、驚いた。「あれが再び読まれる時代になったとは」という驚きだ。
労働者が連帯する、団結する。社会にモノをいう。そういうことが、当事者、しかも若い世代に、まじめに再発見されている。
長野のオリンピック聖火騒動のときのデモと同じように驚いた。
こちらには、このブームに関する、ややペシミスティックな見方もある。もとの小説のプロレタリア運動との関係と、その核になった共産主義・社会主義の崩壊、管理社会における声をあげることの難しさなどを元に、革命ファンタジーへの現実逃避ではないか、としているわけだが、そう複雑なことでもないのではないか?、と思う。
そこまで行かずとも(というよりも、そこまでは行かずに)、社会にモノをいうこと、「自分だけじゃないんだ」と思うことや、人によっては連帯をすることを通じて他人を思いやることに気づいて、行動しているように見受けられる。
「連帯」や「団結」という言葉には「古くさい」イメージがある。それが今の社会だ。そこにあって、「『蟹工船』を越えて貧困を語るリアリティのある言葉を生み出せなかった」ことには、私も同意できそうな気はする。(もっとも大して本を読んでいないので、私にはそれを断言する自信がないが。)
「蟹工船」など読まれない社会の方がよほど幸福だろうことも、そう思う。
が、まあ、今の人たちはここからも何かをみつけて行くのではないだろうか。そのことには希望を感じている。
他方では、国営放送NHKがなぜこれを話題に?、とは思う。それほどブームになっている?
水曜日, 6月 25, 2008
別冊宝島1533 大江戸タブー事件史
別冊宝島1533 大江戸タブー事件史
先日書店で平積みなのを見かけて、ランチの暇つぶしにでも、と買った。これがなかなかよく出来た本だった。
表紙はいかにも「別冊宝島」という雰囲気の本だが、内容は江戸時代の事件・風俗・歴史についてわかりやすく書かていて、「江戸初心者」である私にはうってつけの入門書だった。
私のような「日本史さっぱり派」にはお薦めである。
先日書店で平積みなのを見かけて、ランチの暇つぶしにでも、と買った。これがなかなかよく出来た本だった。
表紙はいかにも「別冊宝島」という雰囲気の本だが、内容は江戸時代の事件・風俗・歴史についてわかりやすく書かていて、「江戸初心者」である私にはうってつけの入門書だった。
私のような「日本史さっぱり派」にはお薦めである。
土曜日, 6月 14, 2008
"Is Google Making Us Stupid?"
Is Google Making Us Stupid?
ネットの世界に浸かっている人は目を通しておくべき文章だと思う。我々がリンクキッカーになってしまって、沈思黙考する習慣を失いつつあるのは、自分でも実感している危機であるし、実は我々をリンクキッカーにすることが情報産業のビジネスモデルであり、ゆっくりテキストなんぞ読んでもらっていては金にならないのだ、ということには、あらためて気づかされた。
Efficiencyは我々に取って重要であるが、それで得られた時間をさらにefficiencyに捧げるのはどうかしている。Slownessを手に入れるためにefficientになるのでなくてはならない。
ネットの世界に浸かっている人は目を通しておくべき文章だと思う。我々がリンクキッカーになってしまって、沈思黙考する習慣を失いつつあるのは、自分でも実感している危機であるし、実は我々をリンクキッカーにすることが情報産業のビジネスモデルであり、ゆっくりテキストなんぞ読んでもらっていては金にならないのだ、ということには、あらためて気づかされた。
Efficiencyは我々に取って重要であるが、それで得られた時間をさらにefficiencyに捧げるのはどうかしている。Slownessを手に入れるためにefficientになるのでなくてはならない。
木曜日, 5月 08, 2008
「東京ど真ん中物語」麹町地区コミュニティ活性化委員会

麹町地区コミュニティ活性化委員会による、一段知られていない麹町地区の紹介をした本である。
構成は、まず枕として「江戸の都市計画」が説明される。その後に「麹町・番町界隈」として、番町から麹町周辺に済んだ芸能・文学・絵画等の世界の住人の物語、「永田町・霞ヶ関界隈」として山王神社のこと、この地の政変のこと、官僚の秘蔵スポットのことなど、「大手町・丸の内界隈」として三菱による大丸有地区開発の歴史と今、平将門の首塚のこと、有楽町ガード下のことなどが、研究あるいは取材レポートとしてまとめられている。
最近は上京の機会がそこそこあって、関東在の知己からもいろいろと教わることは多かったのだが、なかでも、あまりかかわることのなかった麹町周辺(実際のところあのあたりで知っているのは山種美術館ときんつばの一元屋くらいである)のことについて、知らないことをひとまとめに知ることができた。このあたりに関する知識の入口としては、コンサイスで必要な知識がとてもよくまとめられた本だと思った。
すでに絶版?、のようで、アマゾンではユーズドで入手可能。
日曜日, 3月 09, 2008
「美しき日本の残像 (朝日文庫)」アレックス・カー

本書は「残像」に関する話だ。つまりもう残っていない、かつてはあったものの姿。「美しい日本」はすでに残像だ、と著者アレックス・カーは語る。
アメリカ人であり、子供の頃は横浜に住み、アメリカの小学校で中国語を学び、大学で日本学を学び、ケンブリッジから日本の大本教団に就職し、外資不動産会社にも就職し、その日本での活動の中で、伝統的な日本の「美しい姿」と、経済大国ニッポンの自然文化の破壊・荒廃を両方見てきた著者の日本論である。
彼の言葉は率直でありシンプルであり、「日本文化」といった枠組みにとらわれていない。西欧人の目から見た、わざと外したような、皮肉がカジュアルに混じったような書き方をする。
彼自身が子供の頃に培った、日本の美しい自然や文化に対する想いと、崩壊の現実が等しくリアルな組み合わせとして並べて語られる。なつかしくもあり、かつ暗澹とする、我々がどこかに出かけて感じることを、共感できる言葉で語っている。
かつてあった美しいもの、そしてもうなくなりつつあるものを、外側からの目で知っている人のことば、昔語りであり、日本人にとっての客観的なリファレンスになるものと思う。
そして、ギリギリ残っているものをどうするのか、我々にはそれが問われている。もうそれから何年ものひびが過ぎ去ってはいるのだが。
木曜日, 1月 31, 2008
「どくろ杯」金子光晴

ロバート・ハリス氏の本か、Elan-Vitalに彼が出ていた頃のポッドキャストで知ったかして買った本。
詩人である著者・金子光晴が、妻とその愛人の関係が深まるのを畏れ、その妻を連れて上海から東南アジア、インドを経てパリへ、足掛け7年(あるいは5年)の放浪旅行をした際の出来事を綴った自伝。
これは1926年(あるいは1928年)の話である。それを作者は1969年、77歳のときに刊行している。今時の若者がヒッチハイクをするのとは全然違った時代の話であって、途中でいろいろな在外の人たちに世話になりながら、絵を売り歩いて旅費を稼ぎながらの旅であるが、いったいどうやればこうなるのか、というような話で、リアリティを想像するのも難しい話である。
にもかかわらずそれは現実である。それを表現するのに使われている言葉が詩人的で面白い。そして、やや粘着的というのか、過剰装飾的というべきなのか、そういう表現が、今時のチープな小説とは全く違った深い色合いで言葉の世界を形成していて、惹きつけられる。
ニヒリズムなのか、厭世的なのか、自虐的なのか、シニカルなのか、惨めな極貧の道行きを、やせこけてしぶとく歩いているようなイメージがある。先行きの見えない旅に踏み切って出た者の視点で、そこのところが自分には新鮮に感じられる。
うっとおしくも魅力的な本である。
月曜日, 1月 28, 2008
「ホームレス中学生」田村裕

お笑いコンビ「麒麟」のメンバー、田村裕が実体験した中学〜高校時代の赤貧の話。
製薬会社勤務であった父親が、妻(著者の母)の死と自らの病気をきっかけに解雇され、いわゆる中流の生活から一気に極貧となり、著者の中学二年の時に「家族を解散」する。以後、著者やその兄姉は別々に、公園を拠点にしたホームレスとなる。
ホームレスとして公園で生活し、段ボールを食べることに違和感を感じないという状態は相当の赤貧・極貧だと思うのだが、その体験自体のせいなのか、お笑い芸人である著者の性格・キャラクタなのか、あるいは極貧とはいえ、家族のように住まわせてくれたり、なにくれとなくサポートしてくれる友人の家族など周囲の人たちがあり、ぎりぎりでありながらも前に進むことができたからなのか、全体として一種突き抜けた感じの明るさ、楽天性がある。
彼の場合は幸運なケースだったのかもしれない。
この状態で妹を守りながら、一緒に同様の公園生活とバイトでしのいできたという、著者の兄の方がより孤立無援に近かったようだ。兄の話をむしろ読みたい感じがする。
状況があまりに軽々しく見える記述があるにもかかわらず、彼が周囲の人々や、特に母親を思う気持ちは切々としており、少なくとも最後のページ*だけ*にはぐっとくる。
その楽天性なのか、あるいは著者自身が認めている言葉のつたなさのせいか、話があまり深くなっていかない。こちらが実体験したことがないからわからないだけなのかも知れないが、その「浅い感じ」自体が、むしろ本来的に現代の社会で極貧のリアリティに近いのかも知れない。「うっそー」といった、軽いノリで会話が進むようなカジュアルな状況で、一歩踏み外すとたちまち「お手軽に」ホームレス状態が成立してしまうような、セーフティネットが存在しない日本社会が見えているのかもしれない。彼らはその中の、たまたま幸運なケースだったのであり、この話は等しく我々にも降りかかってくるのかも知れない、と。
それにしても、帯にある衆議院議員・麻生太郎のコメントが情けない。
『…ここには、日本人として忘れてはならない何かがあります』助け合って著者らを支えた周囲の人々を指しているのだろうが、他人事のようにそれを言うのは政治に携わるものの立場ではないだろう。こういう人たちが落ちて行かないセーフティネットを作るのがあなた方が選挙で選ばれた理由のはずだ。
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