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木曜日, 7月 03, 2008

エコロジーTV「泡瀬干潟 —その貴重な自然と埋立事業—」


Ecology-TV特集7,泡瀬干潟 —その貴重な自然と埋立事業—

として、泡瀬干潟について、わかりやすく、映像つきで解説されている。

2000年頃に新聞にコラムを書いた時にここについて書いたのだが、この解説を見ると、あらためてこの場所を埋めることが気違いじみた行為であることが、よくわかる。


ここにある写真は、泡瀬干潟の現在開発が取り沙汰されている部分の写真である。http://homepage2.nifty.com/~jaga/awase/にある写真の一枚を、以前にweb記事を書いた時に掲載者の許可を得て切り取って使用してある。オリジナルは「>ジュゴンネットワーク沖縄<」からの提供だそうである。写真の使用許可をどうもありがとうございます。

金曜日, 6月 27, 2008

「蟹工船ブーム」への驚き

参照できるリソースはこちら。また「NHKニュース 蟹工船」でぐぐるとネットの話題になっているらしいこともわかる。

率直に、驚いた。「あれが再び読まれる時代になったとは」という驚きだ。

労働者が連帯する、団結する。社会にモノをいう。そういうことが、当事者、しかも若い世代に、まじめに再発見されている。
長野のオリンピック聖火騒動のときのデモと同じように驚いた。

こちらには、このブームに関する、ややペシミスティックな見方もある。もとの小説のプロレタリア運動との関係と、その核になった共産主義・社会主義の崩壊、管理社会における声をあげることの難しさなどを元に、革命ファンタジーへの現実逃避ではないか、としているわけだが、そう複雑なことでもないのではないか?、と思う。

そこまで行かずとも(というよりも、そこまでは行かずに)、社会にモノをいうこと、「自分だけじゃないんだ」と思うことや、人によっては連帯をすることを通じて他人を思いやることに気づいて、行動しているように見受けられる。

「連帯」や「団結」という言葉には「古くさい」イメージがある。それが今の社会だ。そこにあって、「『蟹工船』を越えて貧困を語るリアリティのある言葉を生み出せなかった」ことには、私も同意できそうな気はする。(もっとも大して本を読んでいないので、私にはそれを断言する自信がないが。)
「蟹工船」など読まれない社会の方がよほど幸福だろうことも、そう思う。

が、まあ、今の人たちはここからも何かをみつけて行くのではないだろうか。そのことには希望を感じている。

他方では、国営放送NHKがなぜこれを話題に?、とは思う。それほどブームになっている?

日曜日, 6月 15, 2008

APFポッドキャスティング再開か

APF ポッドキャスティング
APF LIVE 20080525 part1
「ジャーナリスト長井健司がしようとしたこと」(パート1)

今回のAPFポッドキャスティングは、去る5月25日、宮城県仙台市で行われたAPFトークライブの模様をビデオキャストでお送りします。

今回は初の試みとしてトークの模様をライブ配信しました。このビデオキャストでは、当日ご覧になれなかった方のためにオンディマンドでライブの模様をお届けします。
ということで、APFポッドキャスティングが再開したのかもしれない。ここは独立系?のメディアで、ポッドキャストも興味深いものが多いのだが、昨年、同社の特派員としてミャンマーで取材中に長井健司さんが殺害された後、ポッドキャストの配信が止まっていた。それが再開された、ということになるのかもしれない。

今ダウンロード中。どんな話だろうか。

「i-morley」最終回とライブ

i-morleyがポッドキャストを終了した。3年くらい続いたのだっただろうか。一応「夏休み」ということになっていて、その間は執筆などをするとのこと。9月になって復活する、とは聞いているが、実際はどうなるかわからない。その時の状況で変わるものと思っている。

Podcastというものに関心を持ったのは2004年から2005年頃だったと思う。RSSによるwebコンテンツの擬似的なpush配信(実際はRSSクライアントがRSSサマリを取りに行っているわけだが)の方法が前面に出て来て、音声コンテンツ、ビデオコンテンツの配信のあり方にも眼がいったころのことだ。
そのころからpodcsastをGoogleで探すと、i-morleyはかなり簡単に見つかる方だった。まだiTunesがpodcast RSSに対応していなかったのでiPodderを通じてコンテンツを取得していたと思う。

当時podcastは、特に日本ではまだ始まったばかりで、玉石混淆、有象無象あらゆるコンテンツが同じ土俵で対等に勝負をしていた。私のようなユーザーの観点からすると、まず落ちるのが「つぶやき系」で、日々のヨシナシゴトをだらだらとしゃべっているやつだった。こういうコンテンツはまた、高率に「あー」や「ええと」や「うー」や、そういう「しゃべり慣れない」人に特有の言葉が交じっていて、場合によってはそれが全配信時間の半分位を占めているようなものがたくさんあった。そのへんがまず、音声コンテンツの品質、というれべるでばっさりと落ちた。あとは録音技術とコンテンツのバランスで、録音はひどくても聴く価値のあるものは聴いているし、放送局で録音したような品質であっても、中身がすっからかんのやつは落ちるようになった。

その中でもi-morleyはダントツに面白かった。モーリーロバートソンという人の話し方の面白さ、言葉の紡ぎだし方のオリジナリティが、とてもよく現代を表しているように思った。またネスティングが正しい、というのか、話がどこかに展開して行くと、どこまでも行ってしまうようにみえてちゃんと元に戻ってくる、そういう頭の良さ、明晰さを感じた。
あとは、彼の過ごして来た道のせいなのか、世界の多方面を多面的に見ることのできる視点に強く惹かれた。まあ銀座の真ん中でベルギー産の高級チョコレートを食べながら、その生産国の労働者の搾取について語るようなあり方そのものが、この社会を体現しているような感じがして、ある種の共感をもったのだ。これは我々の立っている場所の正しい見方である。そのことの認識から始めないと、我々は世界を見誤るだろう、という警句のようなものを感じた。
様々な世界の矛盾を、自分(とは我々でもある)の立場の矛盾も巻き込んだ形で「伝える」ことをテーマとしているような番組で、面白く、というのか、自分のあり方についても日々考えるような感じで聴いていた。
私はほとんど彼のpodcastの一番最初近くから聴いている。最初は河野麻子さんが番組のパートナーであったが、そのうちに(レネ・ポレシュ演出「皆に知らせよ、ソイレントグリーンは人肉だと」の公演の取材の頃から相方が池田有希子さんに変わって、そのまま続いて来た。池田さんという人はバイリンガルで、話のノリがモーリー君とよく合うようだ。(ついでがあったので、わたしは「皆に知らせよ…」の公演も観に行った。)

そのi-morleyは昨年2月頃、チベットから新疆ウイグル自治区と、その後東南アジア(ベトナム・タイ・ミャンマー等)を旅し、Skypeなどを駆使して現地からpodcastを行った。(たまたま、私自身も、昨年夏は新疆ウイグル自治区に行った。)
そして、今年、北京オリンピックを前に起こったチベットでの争乱にi-morleyはどんどんコミットして行った。
その反動のようにして、いったんお休み、ということになったようだ。そして「ラストライブ」が行われた。
たまたま上京する用事の晩だった。どうみてもこれは縁だろう。ということでライブに参加した。

吉祥寺という場所に行くのは初めてだった。ちょっと早めについたので周辺をうろうろして時間をつぶした。たまたまみつけた古書店があり、愛知県陶磁資料館で行われた「茶の湯の美:五島美術館コレクション」の図録を買った。この図録は展示された陶器全ての断面図がついているのが面白いと思ったからだ。
時間になって入った。
彼はサージシンセサイザーというアナログシンセを使っていた。70年代に開発されたもので、彼が持っているのは90年代に特注したものだそうだ。それをCubeとよばれるデバイスでコントロールし、リアルタイムに音楽を作ってみせた。アナログシンセだというから、ビートはもともとプログラムしているのだろうと思うが、それにかぶさる「上もの」の音がCubeで変調されていく。普段番組のバックで鳴っている音がこうして作られているのだな、と、その音の良さとともに感心した。

ライブが終り、そのまま飲み会となった。モーリー君も最近は飲まないようにしていたというビールをすこし。
いろいろな裏話が聞けた。これからのプランについても。それらはいずれ明かされるだろう。楽しく過ごして、モーリー君とツーショットして、会場をあとにした。池田さんとは、お話しする間もなかったのが残念だった。

彼のような存在は貴重だ。今時なにひとつまともに情報を伝えない大マスコミとは全く違った視点からものごとを捉え、それを伝える。鈍りきった我々の頭では、まずはそのような視点があることの認識から始めないと、世界をうまく捉えられない。そういうメディアとして彼自身が果たしていた役割は大きいと思う。「もうそろそろ自分の頭で考えて」と彼は言うのだが、そういう「自分で考える人たち」が増えるには、まだまだ彼のような存在は貴重だと思う。

ということで、9月になったら、何が起きるのか、ウォッチして起きたいと思う。

過去のpodcastはまだ彼のサイトからたどれると思う。どなた様も聞いてご覧になることをお薦めしたい。
このような違和感の中に身を置くことも重要なことだと思う。

金曜日, 5月 16, 2008

きくちゆみさんの東京FM出演Podcast

きくちゆみさんのこのポッドキャストは、グローバリズムの現在の平和を考えるのに、参考になるものをいろいろ含んでいると思う。ご一聴をお薦めしたい。

火曜日, 4月 29, 2008

オリンピック聖火リレー:長野

長野でのオリンピック聖火リレーが荒れた。逮捕者も数人?でて、まあフランス辺りと同じくらいの感じなのだろうか。

いくらかの点で驚いている。

まずは、自分の記憶にある限り、今回のイベントは、昭和から今に至るまでで初めて、日本国内で、外国の政治情勢についての対立構造が、おそらくは当事者である中国人・チベット人だけでなく日本の国民をも含めた形で、テレビのデモ行為およびいくらかの闘争行為として、テレビなどのマスメディアを通じて目に見える形で明らかになったのだ、ということ。

もう一つは、既に「政治の時代」はまったく終わってしまったと思われていた日本国内で、思いのほかに多くの、特に若い人たちが、この海外の政治情勢(と人権問題)について自らの態度をアピールしている、ということだ。
「無党派層」などという言葉で呼び習わされている人たちが、きっかけがあれば、思いのほか迅速にかつ組織的に行動を開始している。しかも、いわゆる「政党オルグ」てきな手法が介在することなく、自発的な組織化がおきている感じがする。組織化というよりは「フラッシュモブ」と同じようなものかもしれない。

新たな政治的ムーブメントのあり方を認識した気がする。以前はそのムーブメントの中心には、あきらかに政党や関連するグループがあったと思うのだが、いまのこのフラッシュモブ的なムーブメントの中心には何があるのか? そこが見えないところが、少なくとも興味深い。
今回の「フリーチベット」ムーブメントはなにが中心になったのか?
ビョーク?
i-morley?
2ch?

水曜日, 3月 12, 2008

Mixi日記の削除と、Mixiからの引っ越しリサーチ中



ソーシャルネットワーキングサービス、mixiが著作権条項改変問題で揺れている。事件に呼応するように株価がストップ安をつけたようだ。

話はmixi内部のことであるし、いろいろとネットにも書かれているので詳細は再掲しない。ポイントは以下のようなことである。

・mixiの規約改変で、ユーザーの作ったmixi内部にあるデータを、mixiがほとんど全て自由に無償で改変・利用できると明文化される
・これに対してユーザーが騒ぎ始めて事件になっているのだが、mixiはそれに対して「条文は主にデータ処理のためのもので、ユーザーの著作権について触れた条文を付け加える」と追加説明しているが、それも法律文言的に検討すると大した意味はないらしい。(詳細はmixi内部「著作権」コミュニティ管理人のSimonさんの日記の解説に詳しい:mixi内部のことなのでここからリンクはしない。)

ということで、私は個人的な対応として以下を行うことにした:

・私のmixiの日記は、直接mixiで書き始めているものと、ここなどの記事へのURLリンクを紹介する形で書いているものがある。それらのうち、mixi内部で直接書き始めているものをほぼ全部削除する(非常に特殊なケースが10本ほど残る)。

これらは全記事の約60%に相当する。この記事についているイメージは、削除する/しない記事を整理してNeoOfficeでテーブルにしたもののスクリーンショットである。

これはmixiに対する私のけじめであり、主張である。mixiから、マイミクもろとも他のSNSへ移れる方法にはどんなものがあるか、というリサーチもしている。ユーザーが減ることにつながるアクティビティが、いちばんmixiにたいしてプレッシャーになるのではないかと思っているので、その経緯も、可能な限りmixi内外で開示しようと考えている。

日曜日, 3月 09, 2008

「美しき日本の残像 (朝日文庫)」アレックス・カー



本書は「残像」に関する話だ。つまりもう残っていない、かつてはあったものの姿。「美しい日本」はすでに残像だ、と著者アレックス・カーは語る。

アメリカ人であり、子供の頃は横浜に住み、アメリカの小学校で中国語を学び、大学で日本学を学び、ケンブリッジから日本の大本教団に就職し、外資不動産会社にも就職し、その日本での活動の中で、伝統的な日本の「美しい姿」と、経済大国ニッポンの自然文化の破壊・荒廃を両方見てきた著者の日本論である。

彼の言葉は率直でありシンプルであり、「日本文化」といった枠組みにとらわれていない。西欧人の目から見た、わざと外したような、皮肉がカジュアルに混じったような書き方をする。

彼自身が子供の頃に培った、日本の美しい自然や文化に対する想いと、崩壊の現実が等しくリアルな組み合わせとして並べて語られる。なつかしくもあり、かつ暗澹とする、我々がどこかに出かけて感じることを、共感できる言葉で語っている。

かつてあった美しいもの、そしてもうなくなりつつあるものを、外側からの目で知っている人のことば、昔語りであり、日本人にとっての客観的なリファレンスになるものと思う。

そして、ギリギリ残っているものをどうするのか、我々にはそれが問われている。もうそれから何年ものひびが過ぎ去ってはいるのだが。

金曜日, 2月 01, 2008

真喜志好一さんのこと

大昔のパソコン通信の仲間が集まる機会があり、久しぶりにmaxiさんこと真喜志好一さんと時間を過ごした。
彼は、以前は立法院棟の保存・再生運動に心血を注ぎ(沖縄の戦後の象徴するモニュメント的存在であったその立法院棟は、保存運動の甲斐なく、沖縄県が駐車場にしてしまった)現在は辺野古の海上基地と高江のヘリパッド建設への反対運動に身を投じている。いろいろと大変な状況であろうに、再会した彼はとても元気だった。見た目はたまたま先日自宅で見つけた朝日グラフ96年の写真とさほど変わらない。

元気というか、ビビッドだった。明晰な頭脳をもち、したたかに運動のための戦略を描いている。苦労を楽しんでいる、というのとは違うだろうが、正しいと信じていることを、いたずら少年のように実践している、とでもいうのだろうか。そういう子どものわくわくした感じに似ているように思った。
そこに問題があるのを実感しながらも、PCの前でその情報を見ながら外野評まがいのことをしながら悩んで?いるのとは違う。リアルな展望をもち、現実の問題に直面している人々とリアルな関係を結んでいる。

ああいう姿を見ると「自分はどうしたらよいか?」「自分のコミットメントとはなにか?」と、つくづく思う。問題は思うその先にあるのだが。。

金曜日, 11月 02, 2007

「やかまし村の子どもたち」ラッセ・ハルストレム

やかまし村の子供たち
ラッセ・ハルストレム監督の映画である。私が彼の名前で思い浮かべるのは「ショコラ」だ。

ヒマナイヌの川井さんがmixiでレビューしているのを見て借りて観た。

北欧の、分厚い緑につつまれた村で、6人の子どもを中心に、「ただの生活」の風景が描かれる。
それだけの話だ。

しかし、「生きるとはこういうことなのだ」という、当たり前の、とても大切なものを突きつけられる気がする。

これは、日本がなるべきであった世界なのだ。普通の人々の日々の生活が安定していて、真っ当に暮し、次世代を育てる。生き続ける自然の美があり、人々がナチュラルな自然体で暮らしていくことが出来る。
バブル期からこちら、ITだ「勝ち組」だと浮かれ騒ぎ社会資本整備を忘れ、「中流」と言われた階層がいつの間にか貧困層になっていき、人々のありようが先鋭化し、他人を自分の利でしかみない社会とは対極のものだ。北欧の小国に対するあこがれを強く感じる。これが物語の中の世界であると知っていても、だ。

いつか、こういう世界にいたいという、理想が生まれる。忘れるべきでないもの、社会のありようも、海外派兵もなにもかも、そこから全てを見直すべき土台を感じる。

金曜日, 10月 26, 2007

恵比寿駅前にて


印象が薄れないうちに書いたほうがいいだろう。

先日、恵比寿にいた。写真美術館で鈴木理策の展示を観たあと、人と会って、近くの松玄で焼味噌と焼きのり、卵焼き、日本酒と最後に蕎麦を手繰ってからJR駅へ戻った。ふと思い出して気をつけていたら、やはりそこにその人がいた。
「ビッグイシュー」の販売人だ。

i-morleyで知ったこの雑誌は、ホームレスの人が手売りをしている。一部300円で、一冊売れるとダイレクトにその中から160円が販売人の収入になる。10冊売れば1600円で、たとえばとりあえずその日は食事をすることができる。そういう仕組みだ。オリジンは英国だそうだ。

JR恵比寿駅西口の横断歩道近くにその人はいて、はにかんでいるのかどうなのか、私には白い歯を見せて笑っているように見えた。そして右手にその雑誌を掲げている。

私は近づいていって「一冊下さい」と言って、イタリア製の革の財布から100円玉3枚を取り出して彼に渡し、雑誌を受け取った。無言だったと思う。それを手に持ったまま携帯のEdyで改札を通過し、山手線に乗ってからそれをCrumplerのリュックにしまった。リュックにはMacBookとキヤノンのデジタル一眼レフが入っている。そしてiPod ShuffleとSONYのノイズゲートつきイヤフォンを身に付けている。

背中に50万円分くらいのモノをかついだ私が、160円をホームレスの人に渡したのだ。それだけのことだ。もっと気の利く客なら、なにか差し入れでも持っていくのかも知れない。私はそれをしなかった。その前に5000円ちかく飲み食いして腹いっぱいで、食事に関連したことは思いつきもしなかった。

だが、私は今までこういうことであっても、ホームレスの人とかかわることがなかった。自分にとってはエポックメーキングなことであった。

わかりやすい英語:きくちゆみ

.mp3へのリンク

この人の英語はなぜにこんなにシンプルで、わかりやすい(伝えるべきことを伝えている)のだろう、と感心する。

木曜日, 10月 18, 2007

危ないぞ、日本ーー日米の教科書事情比較:きくちゆみ

http://kikuchiyumi.blogspot.com/2007/09/blog-post_08.html

ポッドキャストmp3ファイルへのリンク:
http://www.harmonicslife.net/PodCasts/2007/Yumi20070807Podcast.mp3

「沖縄からイラクに医薬品を持っていった時、イラクの医師から『この子供たちを殺す飛行機はあなたの島からきている。それをどう思うか』と問われた。」

土曜日, 10月 06, 2007

「山路徹のAPFポッドキャスティング」

先日ミャンマーで日本人ジャーナリスト、長井健司さんが亡くなられた。長井さんが契約しておられたAPF通信社、ということでたぐっていって、「山路徹のAPFポッドキャスティング」を見つけた。

これが面白い。i-morleyのように面白いと思う。

i-morleyのような番組構成やスタイルの破天荒さは全然ないのだが、コンテンツのまさしく「中身」がトんでいる:

  • 「人生相談」のコーナーに7歳の子どもが電話してきて「人間はなぜ戦争するの」と難問を突きつけられる。在イスラエル歴40年というジャーナリスト二人で一生懸命悩みながらそれに答える。
  • 「人生相談」のコーナーに、中国東北部に住むという韓国系の人から「仕事がないんですがどうすればいいんでしょうか」といわれ、また悩む。その話の中で中国のさまざまな問題点が個人のレベルと世界のレベルを行き来しながら語られる。
  • 中近東を取材している記者のが語る、なぜかその場にいて自動小銃を握っている若い日本人の話。
  • 日本の危機管理の話をしていて盗聴の話題がでて、「そりゃ気にしますよ。だって自分がしてたんだからされる時のことは考える」という、元公安系か外務系の人の話。
などなど。

i-morleyが好きな方なら、こちらも興味深く聴けると思う。お薦めである。

例の殺害事件の頃から更新が止っているようである。「自粛」などという言葉とは無関係そうに思われる人たちなので、取材の整理でもしているのではないだろうか。次の更新を期待している。