木曜日, 10月 07, 2010

今敏氏死去、千年女優、などなど

アニメ映画監督、今敏氏が亡くなったのはもうしばらく前になるが、少し整理してみる。

まずは今敏氏のご冥福をお祈りいたします

この訃報は、その事実の伝播のし方が、少なくとも私にとっては、これまでにないものだった。
最初、私はそれを家族との朝食の席で聞いた。息子が「今敏氏が亡くなったらしい」というのだ。「らしい」と。数時間前にガイナックス関係者のツイートで見たという。
私はまずGoogleでニュースを探した、それらしいものは何もない。見つかるのはガイナックス関係者のツイートだけだった。ツイートをたどっていくとさらにいくつかのツイートがあるが、それしか見つからない。中国語のサイトがニュースに報じているのを見つけたが、この情報源も自分が探し当てたツイートだった。結局は全てtwitterからだ。

その後数時間にわたって、mixiで質問したりしながら時おりネットを検索したが、twitter以外からは何も情報が得られなかった。「今敏 死亡」を検索文字列にしてGoogleアラートを立てたが、最初にそれが鳴ったのはその日の15時頃だった。この頃に公式発表が行われ、メディアが報道し、またホームページに事実が公表されたようだった。
自分自身の実体験としては初めて、ツイートがマスメディアに先行しているのをリアルタイムにフォローしたことになった。ついにこういう時代が来たのだ、という、一種の世界の再構築が、私の頭の中で起きた。

◎パプリカ
その日、手元にあった「パプリカ」を観た。筒井康隆の原作を元にした熱狂と狂気がつたわってくる。このことについては2008年の記事に書いてあるので、ここには詳しく述べないが、前回は狂気的なイメージだけが目に付いた感じだったのに比して、今回はストーリーの骨格がより明らかに見えた。これは観るほうの学習効果だろう。


◎千年女優
そして、まだ観たことのなかった「千年女優」をレンタルビデオで観た。ツタヤのオンラインレンタルだが、待っている数日間で貸し出し確率がどんどん減っていくのが見えた。

もうこれは「俳優がいないのでアニメ」というしかない感じがする。今の人には出来ない役柄だ。「芸能界を引退して久しい伝説の大女優」という主役キャラクター・藤原千代子を演じられるのは、明らかに原節子しかいないが、それは主役のキャラクターと全く一致する彼女の生き方からすれば、不可能なことだ。(原節子は90歳で存命。つい先週、ビューンの雑誌のどれかで彼女の記事を見かけた。)そして、彼女を差し置いて他の誰がこの役を出来るだろうか。だからアニメなのだ。

全編はストレートな愛の感情に満ちている。時相を相前後しながら、ひたむきな彼女の愛が、自由度の高いアニメの表現力を利用して、奇抜で印象的なイマジネーションを存分に展開しながら語られる。表情や動作の描画表現は卓抜している。
アニメ表現が、最良の形で結実した作品だ。アニメのビジュアルはここまでリアリティを表現できるのだ、という実証そのものだ。

◎「パーフェクトブルー」
以前にコメントしているので再度は触れない。

彼の作品を「狂気」と結びつける意見があるが、それは少し違う感じがする。彼の表現力が、狂気までをリアルに観客に印象づけられるほど優れているのだと思う。私には彼の表現は、徹底したリアリティへのこだわりに見える。大友克洋の影響が色濃いが、それでも全ては彼の才能だ。

今敏を越えられる監督が今いるのか? 新海誠は? それ以外は?
ひょっとして、昭和、という前の時代が「リアリティ」と結びついているとしたら、これを表現出来る人はもういないのでは?
ひるがえって、現代の「リアリティ」とはなにか? 「格差」か? 「電脳」か? 「空疎な『誰でもやればなんでもできる、頑張れ!』にあえぐ人々」か? そういうものを正面から表現するクリエイターはいるか?

今敏と他のアニメ監督二人を比較してみる。
まずは押井守。押井作品はヒネている。ビビッドでない。私小説そのものの枠組とストーリー展開のミスマッチに面白さがあるが、その面白さはシリアス表現の漫画に突然出てくるSDガンダム的キャラクターの表すチープさに似ている。反対概念と結びつかないチープやニヒルは、ただのチープやニヒルでしかない。「アヴァロン」のハインドに、「チャーリー・ウィルソンズ・ウォー」のハインド以上のチープさを感じるのは、正常な感覚だ。
リアリティは今敏の方が上。

宮崎駿はどうか。あちらはダイナミックな展開をみせるファンタジーの魅力。最後は力技で、どこまでも世界をひっくり返して見せる力量が凄い。リアリティとは違った世界にいる。そんなもの関係ない。

誰が今敏を継げるのだろうか。合掌