木曜日, 10月 21, 2010

New MacBook Air 11 inch、アップルの戦略など

Mac: MacBook Air 11inchが発売になった。サイズ的にはネットブッククラス、ということになる。ネットブックやiPadよりわずかに幅が広い、という感じか。重さはネットブックくらい。
これはかなり気になる。もう少しでポチッと買いそうになった。




私はこれまでどうして来たか。普通にMacBookを使っていた。「普通の」MacBookの最後は黒いMacBookだ。これの重量は2.3kg。重い。
そのころ初代MacBook Air 13インチが出た。「レガシーデバイスなし、ワイヤレスで生きろ」がJobsのメッセージだった。重量は多少減ったが、多くは変わらず。HDが最大120GBという制約があり、それで購入に踏み切れなかった。
その後、世間のネットブックの軽さにあこがれ、いっそubuntuのネットブックを試してみようかと思った。がしかし、普段プレゼンテーションなどをこれで行うので踏み切れず、ついに「思い余って」Dell Inspiron Mini 10vを使ってHackintoshすることになった。多少の問題はあったものの、これは十分に使えて最近までメインマシンであった。

そこにiPadが登場した。「クラウドで生きろ」が今度のJobsのメッセージだった。パラダイムの転換を予感し、使うことに。最近はこれしか持ち歩かない。10vはデスクトップPC状態になった。iPadでやりたいことの95%は出来ているが、一番いやなのはプレゼンター(クリッカー)を使いながらKeynoteでプレゼンできないことだった。iPhoneをクリッカー代わりに使ってPDFなどでプレゼンする2Screenもあることだし、いずれは何とかなるにちがいない、とKeynoteのバージョンアップをひたすら待っていた。

そこにネットブックサイズのMacBook Air 11である。フラッシュメモリ128GB。以前なら許容できないサイズだったが、これをモバイルマシンと位置づけるなら、すでに私はクラウドを使いつつ16GBのiPadでモバイル環境を生きている。それなら128GBでいいじゃないか、ということになる。

いまiPadからMacBook Air 11に乗り換えれば、Keynoteの悩みは消滅してしまう。逆に一番困るのは、iPadで習慣化した読書がどうなるのか、ということだった。あとは録音しながらメモが取れるSoundNoteのようなものの問題も。(さらにいうならターミナルで行うようなUNIX環境があるともう言うことはない。)

さてそこで、来年夏に出ると言われるMacOS 10.7 Lionの事を考える。これにはiOSのさまざまなFeatureが盛り込まれる予定だ。つまりMacBook Airは半分はiOSの環境になってしまう、と考えられる。マックとiPadのハイブリッドみたいな感じが予想される。そうするとこちらにも読書関連のiアプリが移植されてくるのではないか? それならおっけーじゃないか。即ポチッとやるか?

…と思っていた時に、過去の流れが蘇る。だがそれって10vでやるはずのことではなかったのか? あるいはiPadでとことんやるはずではなかったのか? 何かどこかにパラドックスがあるような、いまひとつ納得しきれない感じ。。。

結局こうすることにした:
・MacBook AirはLionまで待つ。その頃にはスペックも少し上がるかもしれない。
・それまでにiPadのKeynote環境がクリッカーを使えるようになるかもしれない。それだったら必ずしもMacBook Airは必須ではない。むしろ自宅/職場の母艦のスペックを向上させるべきか。

ということでしばらく待つ。

ところで、ここまで考えて、Jobsの絶妙?(か結果的かはわからないが)な戦略を思った。
要するにそれは「順番」ではなかったか?、と。

新生代Appleデバイス、といってもMacBook Airをまず出しては、たいしたインパクトはなかったろう。それに先立ってiPadを出した。これはクラウド時代の到来と相俟って、エンドユーザーのパラダイム転換を引き起こし、爆発的な売れ行きをもたらしている。

それで、ユーザーのモバイル環境としてワイヤレスもクラウドも当たり前になった時に、iPadで全てを置き換えるのには苦労している私の様なタイプに向けて、絶妙にデザインされたMacBook Airを再び登場させる。「今の時期、このスペックならどうだ。さらにこれは来年になったら半分iPadになるぜ。」というわけだ。ここにはまた大きな需要があるだろう。エンドユーザーが悩むのは、いつiPadを持ち出し、いつMacBook Airを持ち出すか、ということくらいだ。

やるなあ、Apple。

木曜日, 10月 07, 2010

今敏氏死去、千年女優、などなど

アニメ映画監督、今敏氏が亡くなったのはもうしばらく前になるが、少し整理してみる。

まずは今敏氏のご冥福をお祈りいたします

この訃報は、その事実の伝播のし方が、少なくとも私にとっては、これまでにないものだった。
最初、私はそれを家族との朝食の席で聞いた。息子が「今敏氏が亡くなったらしい」というのだ。「らしい」と。数時間前にガイナックス関係者のツイートで見たという。
私はまずGoogleでニュースを探した、それらしいものは何もない。見つかるのはガイナックス関係者のツイートだけだった。ツイートをたどっていくとさらにいくつかのツイートがあるが、それしか見つからない。中国語のサイトがニュースに報じているのを見つけたが、この情報源も自分が探し当てたツイートだった。結局は全てtwitterからだ。

その後数時間にわたって、mixiで質問したりしながら時おりネットを検索したが、twitter以外からは何も情報が得られなかった。「今敏 死亡」を検索文字列にしてGoogleアラートを立てたが、最初にそれが鳴ったのはその日の15時頃だった。この頃に公式発表が行われ、メディアが報道し、またホームページに事実が公表されたようだった。
自分自身の実体験としては初めて、ツイートがマスメディアに先行しているのをリアルタイムにフォローしたことになった。ついにこういう時代が来たのだ、という、一種の世界の再構築が、私の頭の中で起きた。

◎パプリカ
その日、手元にあった「パプリカ」を観た。筒井康隆の原作を元にした熱狂と狂気がつたわってくる。このことについては2008年の記事に書いてあるので、ここには詳しく述べないが、前回は狂気的なイメージだけが目に付いた感じだったのに比して、今回はストーリーの骨格がより明らかに見えた。これは観るほうの学習効果だろう。


◎千年女優
そして、まだ観たことのなかった「千年女優」をレンタルビデオで観た。ツタヤのオンラインレンタルだが、待っている数日間で貸し出し確率がどんどん減っていくのが見えた。

もうこれは「俳優がいないのでアニメ」というしかない感じがする。今の人には出来ない役柄だ。「芸能界を引退して久しい伝説の大女優」という主役キャラクター・藤原千代子を演じられるのは、明らかに原節子しかいないが、それは主役のキャラクターと全く一致する彼女の生き方からすれば、不可能なことだ。(原節子は90歳で存命。つい先週、ビューンの雑誌のどれかで彼女の記事を見かけた。)そして、彼女を差し置いて他の誰がこの役を出来るだろうか。だからアニメなのだ。

全編はストレートな愛の感情に満ちている。時相を相前後しながら、ひたむきな彼女の愛が、自由度の高いアニメの表現力を利用して、奇抜で印象的なイマジネーションを存分に展開しながら語られる。表情や動作の描画表現は卓抜している。
アニメ表現が、最良の形で結実した作品だ。アニメのビジュアルはここまでリアリティを表現できるのだ、という実証そのものだ。

◎「パーフェクトブルー」
以前にコメントしているので再度は触れない。

彼の作品を「狂気」と結びつける意見があるが、それは少し違う感じがする。彼の表現力が、狂気までをリアルに観客に印象づけられるほど優れているのだと思う。私には彼の表現は、徹底したリアリティへのこだわりに見える。大友克洋の影響が色濃いが、それでも全ては彼の才能だ。

今敏を越えられる監督が今いるのか? 新海誠は? それ以外は?
ひょっとして、昭和、という前の時代が「リアリティ」と結びついているとしたら、これを表現出来る人はもういないのでは?
ひるがえって、現代の「リアリティ」とはなにか? 「格差」か? 「電脳」か? 「空疎な『誰でもやればなんでもできる、頑張れ!』にあえぐ人々」か? そういうものを正面から表現するクリエイターはいるか?

今敏と他のアニメ監督二人を比較してみる。
まずは押井守。押井作品はヒネている。ビビッドでない。私小説そのものの枠組とストーリー展開のミスマッチに面白さがあるが、その面白さはシリアス表現の漫画に突然出てくるSDガンダム的キャラクターの表すチープさに似ている。反対概念と結びつかないチープやニヒルは、ただのチープやニヒルでしかない。「アヴァロン」のハインドに、「チャーリー・ウィルソンズ・ウォー」のハインド以上のチープさを感じるのは、正常な感覚だ。
リアリティは今敏の方が上。

宮崎駿はどうか。あちらはダイナミックな展開をみせるファンタジーの魅力。最後は力技で、どこまでも世界をひっくり返して見せる力量が凄い。リアリティとは違った世界にいる。そんなもの関係ない。

誰が今敏を継げるのだろうか。合掌