日曜日, 12月 20, 2015

孤独と思索とソーシャル(ネットワーク)

孤独について考える。孤独は思索とつながっている。深く深く考えるということだ。孤独と思索がクリエーションに繋がっている。ショートメッセージよりロングメッセージ。それでないと伝わらないことは、ある。
現代人はソーシャルでいつも繋がっていることで、孤独を失いつつある。これは明らかに間違っている。我々は深く考える機会を失いつつある。

孤独な場所と時間を確保し制御するのは、だんだん難しくなってきている。我々の生活のどこにそれがあるだろうか?
朝の起きぬけの時間? はあるかもしれない。
人のいない禅堂? いい場所だと思う。
坐禅・瞑想出来る環境を自前で持つ? いいことだと思う。
景色のいい秘密の駐車スペース? かなりいい線を行っていると思う。
一人のキャンプ? 下準備やその場の環境を制御しきれないと少し違う、ということになるが、設営がうまくいき環境を制御できれば、かなりいける。
朝早くから営業している喫茶店? 邪魔の入らない環境が手に入るなら、いけるかもしれない。鍵は人の行き来と、音楽のテイストと音量だ。スタバでヘッドホンで耳ふさぎしているのは、耳ふさぎしている時点ですでにちょっと違うだろう。耳ふさぎしていればどこでも同じことかもしれないが。(でもいけないこともないのか? 実は耳ふさぎという行為をやったことがない。)

繋がらないメディアの存在も重要だ。紙の本。図書室など。邪魔の入らない場所で読み、考えられるかどうか。電子ブックがネットにつながれば、ワンクリック先にソーシャルが待っていて、あなたをどこかに連れ去ってしまう。

検索すればネットにつながってしまう。そこにもソーシャルが待っている。
検索しないで考える時間があってもいいのだ。検索はまとめ、サマライゼーションの一部だ。ブレインストーミングと同じで、自己の思索にはまず発散、自由な思考の展開が先立つべきで、サマライズする必要はない。

思索のツールはなんだろうか。
何もなし。これも悪くない。ただ、考える。考えは頭の中にメモされる。ただ考えることは重要なフェーズだ。
紙。ビジュアル派にとっては重要な発散のツールだ。テキストに落とすところの二度手間が少し残念ではあるが、その作業を含めて思索を整理していると思うことにするしかないだろう。
エディタと軽いPC。テキストを書くこと自体がまとめフェーズであるから、すでに思索の領域を過ぎている。そこで使えるツールならいいだろう。なんだかんだと持ち歩かないで済むのがいいので、その意味では12インチのMacBookはいいのかもしれない(持ってない)。
タブレットやスマホ? マインドマップがあれば、比較的簡便に発散と整理が出来る。基本的に整理ツールなので発散に仕えるかどうかは、慣れ(というより、かわまず書きなぐって整理に頭を使わないスタンス)があるかどうかにかかっている。

一人でじっと考えることに不安を感じる人はいますか? いるのかもしれない。だが実はそれは最高の楽しみ。各自が得られる、純粋な自由時間でもある。好きに妄想なさるがよい。