月曜日, 12月 21, 2015

永観堂で見たもの

昨日は、ぼんやりと京都をあるいた。思索的に過ごすことが出来て、こういうのもいいもんだと思うが、途中にingressが混じるとそこで思考が中断する。気をつけようingress。

蹴上から南禅寺方面に向かい、UPCキャプチャしながら野村美術館方面に歩いた。行く先は決めず、そのまま銀閣寺方面まで歩こうかとも思っていた。
まずは野村美術館が休館。さほど気落ちすることなく永観堂に向かった。以前からここの見返り阿弥陀のことは聞いていたので、一度くらいは見ておこうか、と思った。
東山も紅葉はどこも終わっていて、寒々とした風景である。これが紅葉まっただ中であれば、なにか発想も違ったものになっていただろうか。

永観堂に入り、あらためて観光化した寺の不幸を思った。(尤も人のいない時間にはそれは違っているのかもしれないが。)あらゆるものが俗化している。どこぞの誰が描いたという襖絵は、全体を覆う大きなガラスに覆われて、てらてらと光を反射している。いっそデジタル技術で見分けのつかない複製を作ってガラスなしではめ込んで、オリジナルはどこかに保存した方がいいくらいのものだ。(どうせガラスで覆ったってさほどに保存性が上がるものでもあるまい。どこかで温度湿度管理してください。)堂内は、どこもかしこも観光客のざわめきと笑い声、足音に充ち満ちている。見返り阿弥陀のある阿弥陀堂の中にしても同じこと。像と自分が対峙している雰囲気はなく、ただちらっと見て返ってきただけだ。これならテレビで演出された映像を観ている方がずっといい。

帰り際に、反対側にあまり人が行かない順路があるのに気づいて行ってみた。当たりだった。
そこには長谷川派が描いたという見事な孔雀図のある座敷があり、ほとんど人がこなかった。おあつらえに脇の庭に小川があり、ちょろちょろと水音がする。水音だけの静かな時間と空間。これだよ。
いつだったか、鞍馬方面の瑠璃光院に青楓を見に行った時のことを思い出す。ここも観光化していて、入れ替わり立ち替わり現れるおしゃべりな観光客に辟易していたが、時々人が途絶える。その時に、緑の木立に吹く風がさらさらと軽やかな音を立てる。他に音はない。その瞬間、自分と自然、自分となにかわからない抽象的なものが対峙する。

禅寺やそこらに行く時、我々はこういう時間と空間を求めているのではないのか? いまではいっときに数分も続かないこの時間を。